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中島義道氏インタビュー第3回 “人生に”入門”がないように、哲学に入門なし”。

 

古代から人々の知的好奇心を刺激してやまない学問・哲学――。真理の探究を掲げ、人生や世界というあやふやな物事を、理性でもって追求する。そんな哲学の分野で“戦う哲学者”の異名を持つ中島義道先生に、“現代社会の生き方、死に方”についてお話しを伺いました。コインの裏表のように切り離せない“生と死”を、先生はどのように考えているのでしょう。

 

――中島先生が「は~、疲れるなぁ」と思うのはどんなときですか?

 

私はね、何にもしないとくたびれちゃうんですよ。

何でも、ずーっと厳密にどこまでも思考しているのが好きなんです。いつも考えに、考えている。それは疲れない。

アルトゥール・ルービンシュタインというピアニストはね、80歳になってヨボヨボで歩けないくらいになっても、ピアノの前に行くとすごいパワーで弾きはじめるんです。協奏曲でもなんでも。

あれと同じ。今は、「哲学塾」ではだいたい3コマですから、1日5時間半くらい教えているけれど、全然疲れない。今後、どんなに歳をとっても哲学の講義ならできると思う、5時間でも。これまで訓練してきているからね。だから、疲れないんですよ。

朝日カルチャーセンターとの対立も、契約の問題からはじまって、突き詰めていった先に自分が戦っているのは“世間という得体のしれないもの”だと気づいた。そう気づくと、これからはじっくり世間と戦おうと思って、かえって元気が出てきました。

その後、森友問題でも加計問題でも自衛隊PKO問題でも、わかるじゃないですか。よく見りゃ。えんえんと誤魔化していることが。でもあれでいいわけですよ、法的に証拠がなければ、つまり世間ではね。しかし、哲学はまったく違う基準で、このすべてを見ることができる。国家が崩壊しても人類が滅んでも、真実には価値があり、誤魔化しには価値がないとカントは考える。これは感動的なことであり、私が哲学を手ばなさない理由でしょうね。

 

 

――中島先生は、アートにも力を注いでいらっしゃるようですね。

 

暇だからでしょうね(笑)。私は結婚式や葬式はじめすべての世間的付き合いを断っていて、自分が好きなことだけしているので、時間がすごくある。絵を描くのも、哲学をするのも暇つぶしです。

最近ね、自分でも危険じゃないかと思っているんですが、70歳超えて過度にかわいいものが好きになっちゃった気がするんですよ(フィンランドで購入したというムーミングッズを嬉しそうに紹介する中島先生)。

 

――お部屋にかわいいものがたくさんあるなぁと思っていたんですよ(笑)。ご自身でも絵を描かれていらっしゃいますが、暇つぶしのためだけですか。

油絵を描いていくうちに発見したんですが、絵って頭を使わなくていいんですよ。画家や職人は頭を使わなくていい。ほとんど直感だけでやっている。美学の専門家とか美術評論家は頭を使うけれども。画家の会話では「なんでこんなまっすぐな線が引けるんだろう」とか「この材質はなんだろう」っていう話が主で、美術理論なんて持ち出してこないんですよ。  だから哲学みたいに頭がしびれるほどしんどいことを考えたあとに絵を描くのは、なかなかバランスがいいんです。「ああ、まだこの色ではだめだ」という直感だけですから。あと、体を使うんですよね。キャンバスに絵の具を塗る作業とか、キャンバスを動かす作業とか、いわゆる体操じゃないですか。

ところで、私は、いやゆる“知的な財産”ってほとんど評価しない人間なんです。法隆寺だって、桂離宮だって、なくなったっていい。だって厳密に言うと、あれらはただ「今」あるだけですから。われわれが今ある物質の塊に「古い」とか「価値ある」という意味を付けているだけです。

だから、今モーツァルトの全作品がなければないで構わない。ローマに行っても、パリに行っても、私はほとんど感動しない。ミケランジェロを見てもボッティチェリを見てもなんともない。明日、全部焼けても構わない。

油絵を描いていて救われるのは、よしあしの基準がはっきりしないことですね。下手でも好きな油絵作品はあるし、上手でも嫌いなものは多い。でも音楽で下手なのは聞いていられないでしょう? 絵と……、あとは文学かな。文学も基準がはっきりしていない。誰でもすぐに画家や作家になれるから、偽物がいっぱいいる。だから私もやっていられるんです。

 

――明日死のうと、明日すべてがなくなってようと構わないということですね。過去、現在、未来のような時間軸についてはどのように考えますか?

 

そんなのすぐには言えませんよ。でも「今しかない」ってことは、じつはみんな知っている。過去や未来が「ない」ことも実感しているんですね。でも、言葉を使うと、「もうない」というあり方だと思ってしまう。

つまり過去への移動を言葉で表すとき、「行った」と言うけれども、どこに行ったか知らないでしょ? 「どこに」というのは空間の比喩なんです。時間は空間ではないので、どこかに行ったということはない。過去は単になくなったんですよ。同じように、未来もどこからも来ないんです。ただ「ない」だけです。

としても、言葉を学ぶと、どうしても過去が「行ってしまった」ように感じられ、霧の彼方に自分の青春がかすんでいて、時折それを思い出す(取り出す)というイメージから抜け出すことはできない。

ただ、このイメージはおかしいと思っていても、なかなか抜け出られないのは、言語を学ぶときに“世界像”を一緒に学んでいるからですね。この世界像を振り落とすのは大変なこと。だから、禅の場合には修行というように、言語についた世界像を落とそうとするわけですよね。

 

――通常の世界像を言語から剥がす。それが哲学ということでしょうか。先生は著書で「修練した」「修行した」と書かれていますね。

 

まぁ、哲学の営みとは哲学的言語によって通常の言語がもたらす世界像を剥がすことでしょうね。とことん、“考えること”ですね。

やっぱり人間が持ってる言語の力って、ものすごく強い。未来がない、過去がないって言ったらみんな許してくれない。だから、自分自身の言語を使って書くことによって、通常の世界像を具体的に壊し続ける必要があります。

つまり、哲学をするには、通常の言語の汚染を免れる必要があると考えています。でも、油断していると、通常の言語はじわじわと哲学の言語を侵食してきて、それを呑み込んでしまう。だから、いつも目を覚ましてその暴力に立ち向かう必要があるのです。哲学の言語が開く世界にずーっといるということが必要ですよね。

怠けちゃうと、普通の世界っていうのはすぐ押し寄せてきます。このちっちゃな部屋のそこまで。あとはもう全部外、普通の世界ですよね、

 

 

――言語というと、言葉遣いというのも重要でしょうか? 所属するコミュニティーによって言葉づかいは特徴づいてきます。

 

会社や学校では、通常の言語を破壊するのは難しい。大学に勤めていたときも、普通の言葉遣いを要求するから、私はきつかった。

私は学科長をした時に「新入生、ご入学おめでとうございます」と言えず、卒業生に祝辞を述べることもできず、窮地に陥った。セレモニーなんだから、心からそう思っていなくても、決まり通りの言葉を使えばいいんだ、という考えは危険です。なぜなら、言語っていうのは、その人の思想に寄生しちゃうのであり、通常の言葉を喋っているうちに、その世界像が「過去はない」という哲学的言語を汚染してしまい、「ない」という実感を奪っていくのです。

 

――<死>を考えるときも、言語の寄生からは免れられない?

 

世間はやっぱり「人は生まれて死ぬ」っていう構図を前提とした言語で動いている、広大な客観的世界がガンとあって、「私」はその微小区間を駆け抜けるという構図です。でも、私はそうじゃないらしいと思っている。カトリックの神父さんも禅の坊さんも、そうじゃないと思っている。表面的には「救い」とか「天国」とか「悟り」とか、それぞれ異なった言語を使っていますが。

やっぱり一番の敵は、「私が今いて、昔はいなくて、これから無くなり、その後永遠にいないでしょう」っていう世界像です。

こんなバカな世界あるわけないんで。この構図を破りたいんですよ。そのためにはそこだけ破ってもダメだから、全部の言語の構図を破んないとダメなんです。でも油断しちゃうと、通常の言語が先の世界像とともに押し寄せてくる。

朝から晩までニュースでもなんでもそういう前提で動いている。だからその“ある”とか“ない”とかいう意味を我々はガチっとつかんだ気になっている。でも、“ある”とか”ない”という言葉の意味、そんなによくわかっていないですよね。

私が「未来なんかない」って言うとみんな怒るけれど、つまるところ“ある”という言葉を通常の意味で使いたいから。宗教はそこに切り込むんだろうね、たぶん。言語を変えると、人間って相当変わってくるんです。不幸とか幸福とかも、言語を変えただけで、全然違う世界で生きていると思えちゃう。

 

 

――人が“幸せ”を感じるのはどういった状態なのでしょう。 

 

私は、人から自分が「幸せですか?」って聞かれたときに、「幸せ」って答えちゃいけないと思っているんです。実際、私はかなり幸せなんですけどね、たぶん(笑)。

だけどそう答えないようにする。なぜなら、先も言いましたが、私は自分を救うために哲学を続けていますが、同時に本を書いたり、「哲学塾」を開いたりして、他人に被害を及ぼしている。でも、やめられない。これは、キルケゴール的に言うと、意志的な「原罪」なんです。

そういうわけで、「自分は幸せになってはならない」と考えて、私はやっと安心している。結局「幸せ」という言葉に込める意味は、ほぼ完全に自由なんです。そうでしょ? 幸せなんて各人によって違いますから、みんな勝手に幸せを感じていたってかまわない。

ただ“幸せ病”というのがあって、「幸せにならなきゃいけない」と思い込んでいると大体キツイですよね。幸せでじゃないのに、幸せだと無理に思い込もうとして、みんな誤魔化すでしょ? お互い幸せなふりをして。どんどんどんどん不幸になっていきますよね。

こういう”幸せ病”にかからないようにするために、私は幸せと感じそうだったら、不幸って思い込むことにしようとする。自分は不幸だ不幸だという方程式を作って、「不幸に違いない」って思うようにする。

としても、誰が見ても幸福な人と不幸な人はいるし、そこも誤魔化してはならない。たとえば秀才の方がいいし、美人の方がいいじゃないですか。そういうことはちゃんと認める。人によってさまざまと無理に思わないようにする。

そのうえで言うのですが、「幸せ」のように自分の気持ちを表す言葉っていうのは、自分で変えられるんですよ。

 

――最近は、「楽しい」や「嬉しい」をSNSで共有する人が多いですね。先生はFaceBookなどSNSを利用されますか?

 

いいえ。私全然わかんないですよね。スマホももってないし、電話も嫌いでね。というのはかかってくるのが嫌なんです。そして、基本的に、私は自分のことを人に知られたいと思わない人間なんですよね。

今日食べたものをとか自分の飼っているペットとか、SNSに投稿していますが、ああいうのバカだと思ってますよ。みんな公表したいんだね。なんでそんなに人に知らせたいんでしょうね

でも、私は評論家じゃないからそれはそれで全然かまわないと思っている。つまり、各自の幸せを私が点検してやろうとは思いません。

哲学塾もそう。そういう場所があって、来たいと思った人が来てくれたらいい。哲学塾に年齢制限はない。でも、先にも言いましたが、60歳以上の人は少ない。もうすぐ死ぬんだから、もっと来ればいいのにね。

 

――是非参加してみたいですが……、いきなり哲学塾に参加するのはややもするとハードルが高いかもしれません。先生の本の中で哲学を学ぶのにお薦めを選ぶとしたら?

 

『哲学の教科書(1995年刊行、後に講談社学術文庫)』でしょうかね。あるいは『悪について(岩波新書、2005年刊行)』とか『カントの読み方(ちくま新書、2005年発行)』。

古典だったら……? そうですね。解説書はいろいろありますが、うまく整理している本ほど危険なこともありますよ。天才級の哲学者の格闘している姿は、いかに整合的じゃないか知るべきです。その矛盾だらけの濃厚な言語から哲学者の生の声が聞こえるわけです、古典はみんなそう。『純粋理性批判(I.カントよる著作。1781年初版)』だって、『精神現象学(G.W.F.ヘーゲルによる著作。1807年初版)』だって、みんなそうです。

でも、一人ではまず読めない。だから「哲学塾」にくるとかなんとかして、専門家について実際に味わってみることししかないですね。

私はね、「易しい哲学」っていうのは一切信じない。あってもいいけどね。問いは、「ある」とか「ない」とか「私」とか「死」とか、簡単なんですけど、哲学なんだからずーっとやっていると大変な領域に入っていくわけですよ、当然。

だから結局、哲学の入門っていうのはないんです、人生の入門がないようにね。

 

 

近寄りがたい印象のあった哲学ですが、どうやら私たちはすでに一歩を踏み出していたらしい。なぜならすでに私たちが生きているから。幸せだろうが不幸だろうが、私たちは生きて、そして死んでいく。その道の途中で、哲学にちょっと興味を持ってみたらどうだろう、人生のバランスをとるために――。

中島先生、これからも哲学と格闘し、私たちをより面白い哲学の道へ誘ってください。インタビュー、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

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写真:田形千紘   文:鈴木舞

 

 

編集・構成 MOC(モック)編集部
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PROFILE

中島 義道

1946年生まれ。1977年 - 東京大学大学院人文科学研究科哲学専攻修士課程修了1983年 - ウィーン大学哲学博士  電気通信大学人間コミュニケーション学科元教授。 著書に『哲学の教科書』『時間と自由』(講談社学術文庫)『哲学実技のすすめ』(角川ワンテーマ)『哲学の道場』(ちくま新書)『カントの時間論』『カントの自我論』(岩波現代文庫)『「死」を哲学する』(岩波双書哲学塾)『観念的生活』(文藝春秋)、その他多数。

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