深い円熟味のなかに、爽やかな若さが覗く里見浩太朗さん。時代劇になくてはならない存在ですが、若かりし頃はどんな先輩に憧れを抱いていたのでしょう。さらに親しい間柄だったという歌手・美空ひばりさんとの思い出話からは、“スター”が抱く切なさを感じられます。
国民的ドラマ『水戸黄門』で助さんと黄門様役を演じ切った里見さんですが、その舞台裏には里見さんの驚くべきタフネスエピソードもあるようで……。そのほかインタビュー第三回では、2018年には82歳を迎える里見さんの、溌剌とした生き方にもスポットライトを当てていきます。
──京都太秦は魅力ある役者やスタッフが集まる映画界の中心地のひとつ、時代劇を象徴する場でした。大きな影響を受けた方というと、どなたでしょう。
カッコいい! と思ったのはやはり萬屋錦之介さん、綺麗だと思ったのは大川橋蔵さん。錦之介さんは僕より四つ上で、年齢はさほど離れていませんでした。しかし役者としては格段に上、天井高くにいらっしゃる方でしたよ。
片岡千恵蔵(1903-1983。戦前・戦後を代表するスター俳優)先生とは最初、口もきけなかったです。僕にとってあの方は、映画の中に存在する人だった。映画『十三人の刺客(1963年公開)』で、千恵蔵先生と共演しましたねぇ。僕が時代劇の世界に入って八年ほど経っていたでしょうか。その頃になると千恵蔵先生と僕は、麻雀仲間(笑)。公私ともに仲良くなっていました。だから『十三人の刺客』で演じた叔父と甥の間柄も、演りやすかったなぁ。
錦之介さん、僕は錦兄と呼んでいたんだけど、あの方は鉄砲を趣味にしていましたので、よくご一緒してました。琵琶湖にモーターボートを走らせて、弟のカツオちゃん(中村嘉葎雄。俳優)も連れて、鴨を獲りに出かけたんだ。今は禁止されているのかな、当時はそういうことができたんです。
ボートで湖に出たら、葦に隠れて鴨を待つ。やがて鴨が飛んできて、水辺に降り立つ瞬間をバーンバーンバーンと撃つ。「手応えあり」とはよく言いますが、本当にわかるんだ。外せばスカ、当たれば銃を構えた肩に『ドン!』とくる。空気を伝って響いてくるんです。
──萬屋錦之介さんはスターの中のスター。やはり枠に収まらない豪快な方だったのでしょうか。
錦兄は、酒も女も豪快! 女性のことはあんまり言っちゃいけないけどね(笑)。
ある日「オイ、里見! 家ができたから見に来いよ」と誘われました。結婚したばかりの有馬稲子(女優)さんとの新居です。訪ねてみると「カッコいいだろ? だけどな、稲子が全部洋間にしちゃったんだよ」と、少し残念そうでね。あの方は歌舞伎出身だから、畳の部屋が恋しいんです。でもその願いが叶わなかったのは、奥様に譲ったからでしょう。豪快だけど、女性には優しかったんですね。
錦兄といえば、夜間の撮影はしない主義でした。ですから夜のシーンは全部、“つぶし”! つぶしというのは、カメラのフィルムにシャッターをかけて、夜っぽい青味がかった風合いに調整する撮影技術をいいます。だから、錦兄の作品で夜のシーンは、実のところ“味”に欠けているんです。暗い通りに提灯がぽつぽつと灯っているような味わいは、あまり見られない。
──どうして夜の撮影を頑なに避けたのでしょう。時代劇には宵闇のシーンもたくさんありますよね。
鵠沼にある自宅まで早く帰りたかったからですよ。あの時代、午後四時くらいになると帰りの交通路が一気に混んでしまうものだから(笑)。
でもね、ものすごく仕事に情熱を抱いている方でした。『他人がやらないことを自分はやる!』という想いを貫く。第三者から見て良いか悪いかは別として『俺はこうする! 絶対間違っていない!』と、自分を信じる強さを胸に抱いていました。
『柳生一族の陰謀(深作欣二監督。1978年公開)』で見せた柳生宗矩の演技は正にそうでしょう。家光の首を抱えて「夢じゃ夢じゃ~!!」と叫ぶシーンはとてつもないインパクトを与えた。あんな芝居、ほかの誰ができるだろう。不思議な画であり、異様な芝居でありながら、恰好いい! 役者、萬屋錦之介だからできた演技です。
──あのシーンは、萬屋錦之介さんの鮮烈な演技が脳裏に焼き付きます。昭和30年代後半に里見さんは、兄とも慕う萬屋錦之介さんと共に東映の労働争議を起こしたそうですね。委員長が萬屋さん、副委員長が里見さん、それは一筋縄ではいかない話し合いだったとか。
錦兄と僕が喧嘩したんですよ。僕らがやろうとしていたことは、映画を作る側の人間の権利を、会社にきちんと主張するということ。
儲かっている時の俳優やスタッフは、どんなに忙しくとも不平の声を挙げませんでしたが、映画業界が斜陽になり、作品の製作数が減ってきたので、そうはいかなくなってきたんですよ。「時間外に働いたら残業手当をよこせ」「俳優の出演が〇組と△組とでダブったら、“ダブり代”をよこせ」という要求です。
僕は『このままでは困った、どうしよう』と考えました。「錦兄。アメリカみたいにユニオンを作るのはどうです」と持ちかけ、そのために二人で動くことになったんです。大友柳太朗(俳優。1912-1985)さんもいたんだけど「そんなのは会社に弓を引くことだ。浩ちゃん、俺は知んないよ」なんて途中で降りちゃった。
僕らが事を進め出したら東映の岡田会長がやって来て「どういうことだ、説明しろ!」なんて迫ってくる。だけど大友さんは知らん顔。僕や錦兄が説明したというわけです。「決して会社に弓を引いてはいません。賃金のことで僕らが今まで何も言わなかったのはおかしいことなんです。こういったことは一般の会社でもされていますよ」と。
──どんな会社にも働く人間には権利がありますし、映画制作の現場も例外ではありませんね。
たとえばハリウッドではユニオンがありました。会社Aの俳優さんを、会社Bに貸すときは、会社Bが会社Aに俳優のギャラを払うんです。損益が発生しますからね。アーティストや音楽家も全部そうです。人材を借りたいなら、お金を払う。そしてお金を受けとった会社はそこから個人へのギャランティーを捻出できる。
僕がロサンゼルスで公演をしたときも、ドラムとギターを雇いました。その分、向こうの会社にお金を払ったんです。それと同じようなことをしたらいいんじゃないかと考えました。一人ひとりの俳優さんの生活圏を守るためのユニオンです。
でも錦兄の考えはそうじゃなかった。「俺たちが作るのは組合だ」と言って引かない。しかし、一日五百円で働いている人と、一日数十万から百万以上を稼ぐ大スターたち、その両者をいったくたにして考えることはできないでしょう。「できるよ!」と錦兄は言うけれど、たった一日で何万円も酒に使うスターと、コッペパンを食べて生活する人を一緒に考えていいわけがない。
それで僕たちは真正面から衝突したんです。そうこうしているうちに、錦兄は東映を退社して東京に行ってしまった。錦兄がどんな組合を思い描いていたかは、分からないまんま!
錦兄は往々にしてええ恰好しいのところがあるんだ(笑)。「おぉ、俺に任しとけ!」ってね。それが魅力でもあったんです。一緒にいて面白い方でしたよ。酒を飲めない僕に、「バカ野郎! 酒も呑まずにいい役者になれるかッ!」と喝を入れたのは錦兄です。
──素敵な先輩を間近に見ながら俳優人生を歩んできた里見さんが、「姉上」と親しみを込めて呼んでいたのが美空ひばり(歌手、女優。1937-1989)さんです。共演した映画や舞台では、一緒に歌ったり踊ったり……。
僕は歌うのは好きでしたけど、踊りは下手でした。だから、京都の藤間流の先生に通って練習しましたよ。歌の方は、ひばりさん直々に「ここはこう歌うのよ」と教えてもらったりしたんです。
ひばりさんは僕を“浩べえ”と呼び、僕は彼女を“姉上”と呼んでいました。「浩べえ、小さい時から歌ってたの?」「そうですよ。姉上が『東京キッド』を歌っているの聞きがらね」なんて、姉弟みたいな仲でした。僕の方が年齢はひとつ上でしたが、芸歴はひばりさんの方が上。だけど時々、僕が兄のようになることもありました。
──当時の美空ひばりさんは芸能界の頂点に君臨し、同じ芸能人だとしても近寄りがたい存在だったのでは?
姉上の周りに六、七人が集まると「天下の美空ひばり!」という雰囲気になってはいましたね。でも僕とふたりきりで話すこともあって、そんな時の姉上は普通の女の子でしたよ。
撮影中に「ね、浩べえ。草鞋のひもがほどけたから、五分待つようにスタッフさんへお願いしてちょうだい」と、突然言い出したことがあります。原っぱを僕らが連れ立って歩くシーンだったので、遠くでカメラを構えるキャメラマンさんに「お~い、ちょっと待ってー!」と、僕がお願いしたんです。そうしたら、姉上がス~っと林に入り込んでいきました。少しして戻ってくると「は~。すっきりした!」と。それまでずっとトイレを我慢してたんだって。しかし、“美空ひばり”は人前ではそういうことをしない存在です。弟みたいな兄みたいなものだったんだね、僕は。
──映画スターたちが生き生きとしていたのが伝わってきます。しかしそれから人々の娯楽が映画からテレビへと、本格的にシフトしていきましたね。エンターテインメントにおける時代劇の位置づけというと?
僕は30本くらいの主演映画を経験し、“スター”の浮き沈みの激しさを目の当たりにし始めていました。僕が仕出し役、その他大勢を演じていた新人時代に主役を張っていた人がスクリーンから去っていたり、僕より下の役を演じるようになっていたり……。そうして映画『十三人の刺客』『大殺陣(1964年公開)』を製作したあと、時代劇が消えていく世の中になっていくんです。
僕はヤクザ路線に進んでいくことになった。ヤクザ映画デビューは「里見浩太朗、鶴田浩二出演『博徒』」。着物を纏い、体中に入れ墨をし、刈上げをした姿でした。「こういう恰好もいいな」と思えた。北島三郎さんの『兄弟仁義』がリリースされ、任侠ものに人気が出ていましたね。
ですが、その後に出演したのは背広姿でピストルを構えるヤクザ映画。すると僕、やる気がなくなってしまったのです。そこへ重なるように、テレビ映画の時代が到来しました。『三匹の侍』を皮切りに、『銭形平次』『遠山の金さん』『大岡越前』『暴れん坊将軍』がスタートした。各テレビ局は、一本か二本は時代劇を放映していました。僕もテレビ映画への世界へと入っていくんですね。
──すると今度はテレビ時代劇で、大忙しの日々を送ることに。『大江戸捜査網(隠密同心が事件を解決する痛快時代劇)』で主役を演じながら、『水戸黄門』での助さんを演じ、『水戸黄門』の出演回数は400回を超えるほどにまでなりました。
『水戸黄門』で助さんを演じている時期に、『大江戸捜査網』の声がかかりました。話を聞くと主役だというんです。「え~っ。僕は助さんの撮影を毎日やっていますよ。どうやって主役を演じきれるだろう」と最初は断りましたが、「三日だけでいいのでどうしても」とお願いされましてね。
それなら土・日・月で『大江戸捜査網』を撮ってみたらどうかという話になりました。なぜなら『水戸黄門』は日曜は撮影をしないんです。日曜前後の二日間をさらに、撮影から助さんを外すことができるなら、『大江戸捜査網』のための時間を確保できると、目算がついたと提案されました。それならば「僕の土・日・月を差し上げましょう!」と、出演を承諾したんです。
撮影場所は、『水戸黄門』が京都、『大江戸捜査網』は東京。金曜の夜に東京に入り伝法寺隼人を演じて、火曜の朝には必ず京都へ戻って助さんになる。それが五年間続きました。
『大江戸捜査網』が松方弘樹にバトンタッチし、助さんだけの生活に戻るかと思いきや、『長七郎天下ご免!』が始まりました。でもこの二役は撮影所がどちらも京都でしたから、午前は助さん、午後は長七郎で簡単にやりくりできたんですよ。これが僕の代表作のひとつである『長七郎江戸日記』に繋がったというわけです。
──驚くほどタフネスですね! 時代を象徴するスターや監督らと仕事をし、反面、人生の浮き沈みも見てきた里見さん。第一線で活躍し続けており、まだまだ現役ではありますが、俳優人生を振り返って思うことは?
ここまでやってこれた理由や秘訣は、自分でも分からないよ。たいした仕事をしてきたと言えるのかな。でも、もし言い切れるとしたら日本テレビで『年末時代劇スペシャル(12月30・31日の二夜連続で放送された時代劇特番)』を六年間続けて、どの俳優さんも演じたことがないような“時代劇のヒーロー”を演じさせてもらえた、と思ったんです。『忠臣蔵』の大石内蔵助、『白虎隊』の西郷頼母、『田原坂』の西郷隆盛、『五稜郭』の榎本武揚、『源義経』の弁慶、そして、『風林火山』の山本勘助。
そしてふと振り返ってみたら、先輩も同僚も誰もいなくなっていた……。と同時に、僕の胸に「ゆっくりと一歩」という座右の銘が生まれたんです。『あぁ、焦らなくていいんだ。じっくり周りを見ながら歩いていれば、何か拾うものがある。もしくは誰かが何かをやってくれるものなんだ。人生あわてることはなんにもない。これからもゆっくり歩いていこう』こんな気持ちですね。
──これからも前に、という生き方ですね。そんな里見さんが今、最も幸せを感じる日々の過ごし方はどういったものですか?
なにか仕事が約束されていて、『これからこんな作品に入るんだ』と思いながら……、ゴルフをする! コレが一番楽しい。
ゴルフばっかりしているもんだから、キャディーさんに「熱中症になっていないですか?」と心配されてしまうほど。水墨画も好きでね。花を描くことが多いんですよ。個展もしたいなと考えていますね。
──仕事とゴルフは人生に欠かせない(笑)! まだまだ現役意識に満ち溢れていますね。オーディションに合格し映画の世界の浮き沈みを肌で感じた20代30代、そして40代でテレビ時代劇で再ブレイク。「時代劇の顔」と呼ばれる存在になられました。そして近年はドラマ『リーガル・ハイ(フジテレビ。2012-)』ではユーモアある事務員役を演じ、新境地を切り開いていらっしゃいます。
僕は水戸黄門役を九年と少し演じました。ですが黄門様役に入る少し前、「東映の時代劇は終わったんだなぁ。映画のみならず、テレビからも時代劇がなくなっちゃっていくなぁ……」と思い始めていたんです。ですから、京都のマンションも全て引き揚げました。東京へ戻ろうと考えたからです。そんな時に黄門様役が決まったものだから、急いでマンションの契約を結び直しましたよ。
そうして月日が経ち、ドラマ『水戸黄門』に幕が引かれたのです。『越後のちりめん問屋の隠居生活が、本当の本当に始まるんだな』と考えていたら……『リーガル・ハイ』出演の話が来てね。
実は当時、別のドラマのオファーが先に来ていたんです。僕はそちらを承諾していたのですが、待てど暮らせど脚本が届かない。そうこうしているうちに『リーガル・ハイ』の出演依頼がやってきて、脚本はなんと三冊分も用意ができていた。僕は中身も読まないうちに「リーガル・ハイ、引き受けます!」と快諾したんです。「里見浩太朗に絶対に演じてほしい役がある」という熱を、三冊の脚本から感じたものだからね。
──座右の銘「ゆっくりと一歩」の生き方が導いた作品ですね。『水戸黄門』を知っている人はもちろん、時代劇をあまり見たことのない若い世代まで、『リーガル・ハイ』をきっかけに里見さんの存在が改めて浸透しました。
『水戸黄門』の髭を生やしたご隠居さまが、『リーガル・ハイ』ではチョッキを着て給仕をしている。そのギャップが面白く見えたんじゃないかな。
僕が演じた服部さんは、セリフもほとんどなかったんですよ。「おかえりなさい」「お茶をどうぞ」これくらい。だけど、堺雅人君演じる古美門先生に相談を持ちかけられたときは、豊富な知識で助言をするキャラクター。服部という男は不思議となんでも知っているんです。
作家さんに「服部さんには下の名前はないんですか」と聞いたら、ないと言う。どういう人間なのかと探ってみても「自分で考えてください」と突き放されてしまった。『そうかぁ~』と思いながら服部さんを演じていましたが、ストーリーが進むと「古美門先生の父親」というキャラクターが登場したんです。検事から弁護士に転身した人物で、どうやら服部さんとは旧知のようでね。僕はそこから、“服部さん”という人間の人生を想像しはじめたんです。
──架空の人物像を想像力でどんな風に組み立てたのでしょう。時代劇では実在の人物を演じることが多かったと思いますが、日々、頭を使って常に前進しているのですね。
検事に世話になったということは、服部さんは過去に罪を犯した人間なのではないか。それでいて世界中のしきたりや文化などあらゆることを知っている人間でもある。このふたつの特徴に当てはまる男といえば……、“香具師”だろう。
夜店の香具師はでたらめなことを言うんです。「サァ、はったはった! 張っちゃ悪いは親父の頭、貼らなきゃ食えない提灯屋!」なんて口上をつらつらと言いながら、人を騙して物を売る生業です。
「スエズ運河を泳いで渡ったら、ワニに話しかけられたことがある」なんてことも堂々と言いのける。
服部さんは過去、そんな香具師だったんじゃないかと考えたんです。そして古美門先生のお父上に捕まって、刑務所に入った。刑期を終えた頃、お父上から連絡が入り、古美門先生との縁が始まって……。こんな風に僕なりに解釈をして、服部さんを演じていたんですよ。
『リーガル・ハイ』は堺君もノれる作品だったと思います。直近で出演していたドラマとはガラリと毛色の違う作品でしたから。この間も久しぶりに出演者やプロデューサーたちと食事をしたんですよ。堺君やガッキーも一緒。みんなで「もう一回やりたいね」と話をしながらね。これからの人生、僕の隠居はなさそうかな!
ゆっくりと焦らず前へ進むからこそ、情熱や努力の大切さに気付くことができる。そういう生き方をしていると、仕事も人も集まってくるのでしょう。里見浩太朗さんに演じてほしい役、きっとこれからもたくさんあるはずです。今後の活躍にますます期待せずにはいられません。そろそろ隠居、まだまだこれから。人生100年時代、あなたはどちらの生き方を選びますか?
写真:田形千紘 文:鈴木舞
撮影場所:銀座うかい亭
編集・構成 MOC(モック)編集部
人生100年時代を楽しむ、
大人の生き方マガジンMOC(モック)
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