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里見浩太朗氏が振り返る“戦争”。あの時、少年は空に何を思ったか。インタビュー【第1回】

 

 

8月15日は終戦の日。昭和16年に始まり昭和20年に終結した「大東亜戦争」に、多くの方が思いを馳せる日です。うだるような暑さが体にまとわりつく2018年・日本の夏ですが、戦中の日本にはどのような空気が渦巻いていたのでしょう。

戦争時代を生きたお話しを伺うのは、俳優・里見浩太朗氏。東映ニューフェイスのオーディションに合格し、時代劇の黄金期を飾った名実ともに大スターです。戦時下に少年時代を送った里見さんの頭に今もよぎる、あの夏の眩しさ、匂い、手触りとは――?

 

 

――里見浩太朗さんは昭和11年生まれ。戦中・戦後に少年時代を過ごしましたが、お父上は日本軍の近衛連隊に所属していたそうです。ところが里見さんが生まれて間もない赤ん坊の頃、中国の山西省で戦死されました。お父上はどのような存在だったのでしょうか。

 

僕はね、親父の姿を目にしたことがないんですよ。写真でしか見たことがありません。写真のなかの親父は腰にサーベル提げて馬に乗り、憲兵の腕章をつけて、コールマン髭をたくわえている。これがなかなか恰好いい。ですが、僕にとって親父という存在は長らくイメージでしかなかったんです。実際に対面したことはありませんでしたから。

そこへNHKの『ファミリーヒストリー(著名人を取り上げ、本人やその家族に徹底取材をするテレビドキュメンタリー)』という番組の出演依頼が舞い込んだ。いろいろ調べていただきまして判明したのが、親父には十二人もの兄弟がいたということ。男女比はまったくわからないけれど、その一番下が親父でした。十三番目の末っ子なんです。

親父が生まれたのは山梨県の田舎でね。皆さん、想像つくかな。静岡県から山梨県に入り、身延線に乗車するでしょう。富士宮駅から六つ目の駅に、井出という駅がある。山と富士川に挟まれた、とても小さな村です。崖が切り立ち、段々畑が広がり、そのすぐ下には川が流れているような、田畑を楽に作れそうにはない土地でした。

親父の生家は大きな庄屋さんだったらしいけど、十三人目として生まれましたからね。『こんな田舎にいても、自分は飯を食っていけないんじゃないか』と一念発起して、家を飛び出したんじゃないかな。

しかしながら、“飛び出す”のは誰にだって出来るでしょう。重要なのはそのあとです。田舎生まれの末っ子が青年へと成長したからといって、近衛連兵と相成ったという事実が不思議でしょうがない!

 

 

 

 

――明治、大正以降の陸軍・近衛連隊といえば天皇と皇居を守る部隊でした。いわばエリートですね。

 

東京に、僕の後援会をしてくれた方がいらっしゃるんです。神田に大きなお店を持っていて、その方の旦那様が戦中には近衛連隊に配属されていた。憲兵ではなかったようですがね。生前にお話しをする機会がありまして「里見さん、近衛連隊に入るということは大変なんですよ。しかも憲兵になるなんてなおさら。よっぽど頭がいいか、努力したか。そうでなければ憲兵にはなれません」と教えてくれました。

『あぁ、親父は相当勉強したんだな』と改めて思ったんです。憲兵は天皇陛下と皇居を守るために編成された部隊です。現代の警視庁でいうならば入庁してから上に登るには何度も何度も試験を受けなきゃいけないように、親父も試験を受けたのでしょう。

僕の家にはある一枚の写真が残されています。親父とおふくろ、小さな子供だった兄貴の三人が写っていて、三人が小笠原島で生活していたときのものです。その頃の親父は近衛兵ではありましたが、憲兵ではなかったといいます。その写真のあとに続く人生で、よほどの努力をしたのでしょうね。

今、僕は“里見浩太朗”であるけれど、親父と比べれば全然努力をしていないですね。本当に、大きな違いです。

 

 

 

 

――里見さんが生後八か月の頃、立派な腕に小さな赤ん坊が抱かれることのないまま、お父上は戦死されましたね。成長されてから、亡き父の面影を追ったことはありますか?

 

ほとんどありませんでしたねぇ。ただし不思議に感じることはあったんです。親父が戦死したのは中国の山西省でした。盧溝橋事件(中国北京の盧溝橋で日本軍と中国軍が衝突した事件。1937年)の直後ですね。しかし国内で天皇を守る近衛連隊に所属しながら、なぜ親父は支那事変が勃発した北支に赴任することとなったのか。普通であれば、送り込まれることはないはずなのに。その理由がどうもわかりませんでした。

その謎を解く鍵となるのが、二・二六事件です。陸軍青年将校と兵隊たちがクーデターを起こしましたね。クーデターをを企てた青年将校たちは事件収束後、投獄された者もいれば、銃殺になった者もいた。それを見ていた軍人たちは何を思ったかというと、近衛連隊には「彼らが起こした行動には一理ある……」と感じ入るものがあったようなんです。

 

――当時の時代背景というと、世界恐慌からずっと日本の経済状況は悪く、特に農村部の食糧不足は著しいものでした。政治経済面が大いに揺らいでいた時期ですね。そして軍内部もふたつの派閥に分かれていたという事情があります。

 

ああいった状況下で、「このままでは日本は戦争に突入してしまう……」という懸念を抱いていた人は少なくなかったでしょう。しかも国内には石油がない。戦争を起こしても勝ち目はないとわかっていたんです。山本五十六元帥もそうでした。理解していなかったのは東条英機だけ。日本の軍部はたとえ開戦しても、もって一年が関の山だと見越していたといいます。

それにも関わらず、軍部はどんどん戦争に向かって走っていく。そんな動きを止めようとしたのが、クーデターを企てた青年将校ら。彼らは「天皇陛下のために」と立ち上がったのです。ところが行動に移したら、一転して「天皇陛下に背いた逆賊たち」とされてしまった。

 

 

 

 

――二・二六事件は研究されることが多く、さまざまな解釈がなされている歴史の一幕ですが、青年将校たちがどんな志を持っていたかというのは、重要な鍵のひとつです。

 

青年将校たちがそもそも抱いていたのは、日本と天皇陛下を守りたいという思い。このことを理解していた人間は、当時たくさんいたんです。親父が所属していた近衛連隊の隊長も、事件を起こした青年将校たちへ同情心を抱いていたといいます。

おふくろがこんな話をしてくれたことがありました。銃殺刑に処せられた将校たちの遺体は、遺族に引き渡されます。その現場に親父は居合わせたそうです。遺族の目からはもちろん涙が落ちていましたが、親父たちもわんわん泣きながら亡骸を引き渡したといいます。「青年将校らはクーデターを起こしたが、さもあらん……」と思い、同情心が湧いていたからです。

とはいえ、そんな心模様を少しでも口にした人間はどうなってしまったか。現代でいうなら左遷の憂き目にあったのです。その一人が親父が所属する部隊の隊長でした。そして、本来ならば国内にいるはずの憲兵が、北支へ赴くこととなったというわけです。

 

――二・二六事件のあとの日本では、軍部の政治に対する発言力が強まったといわれています。それから中国では盧溝橋事件が勃発し……。

 

まもなく、親父は戦死したんです。親父が書いた最後の手紙にはこんなことが記されていました。

 

『中国に上陸したが、ことのほか中国兵の抵抗は激しく、前進できない。いったん本艦に引き揚げて艦砲射撃を数分行った。港に大砲を打ち込んで上陸をすると、抵抗は収まり、前進することが決まった。これから万里の長城へ向かう』

 

おふくろや兄貴、友人に向けて書かれていた手紙です。けれどその手紙がおふくろの元へ届く前に、親父の戦死公報がやってきた。手紙より、戦死の通知の方が早かったんですね。

おふくろがよく思い出す夢の話があるんです。『長靴が地面をコツコツと弾く音が聞こえて、うちの玄関がガラガラっと開いた。サーベルがガチャガチャ鳴る音もする。あら、今頃は北支にいるはずのあの人がなぜ帰って来たのかしら』と、親父の帰宅を不思議がったところで目が覚める。おふくろがその夢を見たあくる日、戦死公報が届いたのです。あれはきっと、虫の知らせというやつだったのかな……。

 

 

 

 

――お父上と一緒に過ごした思い出はなかった里見さん。母子家庭となってからは戦火を逃れて住まいを転々とし、たくましく成長していきます。

 

東京から親戚のいる富士宮へ疎開したのは、空襲が激しくなった時期です。静岡が焼け、清水、浜松、沼津も続いた。清水や静岡、浜松には軍需工場があったからでしょう。東京を爆撃するというときに、B29の通り道になったのがちょうど静岡と浜松でした。そのあたりには静岡連隊の拠点がありましたから、そこを狙われたんじゃないかな。富士宮はというと、戦車隊になるための学校はありましたけれど、標的にされる理由がなかったんだね。

しかしほかの街が焼かれていくにつれて、「次に狙われるとしたら富士宮ではないか」と心配されるようになりました。祖母も「そろそろ富士宮も危ないから、ウチにおいで」とおふくろに言ったんでしょう。僕ら家族は富士宮から南西にある松野村へと疎開したんです。僕は当時、小学校三、四年で、終戦の二か月前のことでした。

 

――少しずつ、戦火が国内の日本人の日常に近づいてきていた頃ですね。爆弾を積んだB29が飛んでいくのを目撃したということですが……。

 

目撃なんてものではないよ。この目で何機ものB29を見たんだ。

最初はおよそ50機が飛んでいくのを眺めていた。それが東京を丸焼けにされたときは桁違い。400機ものB29に空を覆われたのです。鼓膜がおかしくなるほどの爆音、腹のあたりを奮わせる轟き。空を仰ぐと、数珠繋がりになっているかのように、一面が爆撃機だらけだった。

B29はね、今の旅客機より少し小さいくらいの機体なんだ。しかしプロペラは四つも付いているもんだから、音が物凄いんです。ジェット機よりも轟音。日本にはあんな戦闘機はありませんでしたよ。日本の戦闘機が飛んでいるのを見たことがあったけど、一機か二機、ぽつんと空を滑っていた。アメリカの方は大編隊を組んで、空を突き進む。子供だったからかな、恐怖心はあまりなかった。ただ「すごい!」とだけ……。

こんなことがありました。ある日、富士宮の上空で、爆撃機が空中分解したのです。アメリカ兵が乗っているであろう機体は三つに分かれ、落下傘がボン・ボン・ボンと宙に飛び出てきた。そのうち機体は爆発したけど、パイロットは脱出できたように見えた。

僕が思ったのは「落っこちた兵隊はどうなるんだろう」ということ。どんな田舎のご婦人でさえ、竹やりを持っていた時代です。町や農家に不時着したら、米兵はおそらく突き殺されるだろう。警察官が駆け付ければ、身柄を捕えてくれる。だけど当時は警察や軍隊がどこにでもいるわけじゃなかった。怖さのあまり、誰かが突き殺してしまうだろう――。

 

 

 

 

――当時の日常から導き出されるのは、そういった結末だったのですね。しかし大人と子供とでは、恐怖の感じ方は大きく異なっていたのかもしれません。戦争を体験したときの年齢によって、その時々に湧き上がる感情はさまざまといえそうです。アメリカの兵隊に対して、当時の里見さんはどんなイメージを持っていましたか?

 

『悪い人たち』というのはピンとこないね。当時は世の中に『米兵撲滅』という言葉が浸透していたんです。そういう言葉を大人たちから聞いていました。

僕は十歳そこそこで、新聞なんてきちんと読めるような年齢でもなかった。ラジオから流れてくるニュースが情報源でしたよ。『東京に爆撃機が来襲した。被害は浅草、品川方面…』なんて風な放送です。子供が聞いても、(情報を組み立てて)現実を理解することはあまりできませんでしたね。

ただ、外国のことを何も考えていなかったわけじゃないですよ。『パットン大戦車軍団(1970年アメリカ製作、フランクリン・J・シャフナー監督、フランシス・フォード・コッポラ脚本)』というアカデミー賞を受賞した映画があるんだ。ジョージ・C・スコットというブロードウェイ出身のいい俳優が主役でした。アメリカの将軍ジョージ・パットンを描いた戦争映画です。劇中で、パットン率いるアメリカの戦車隊が北アフリカ戦線に赴くと、ドイツの戦車の方がはるかに優秀で格好良くて、アメリカの戦車は跳ね返されてしまうんです。戦後しばらく経ってドイツの戦車を知ったあとでは、やっぱりアメリカや日本のものはオモチャみたいでね。

 

――迫力ある戦車に憧れてしまうなんて、少年らしいエピソードですね。しかし戦車の格好良さ、性能の違いから、国力の差が見えることもあったのでしょうか。

 

終戦間近になると日本はガソリン不足に陥るんです。銀の食器や鉄製品はすべて教室で回収されてしまった。お匙ひとつだってないですから、竹の匙でご飯を食べていました。自動車の動力はすべて木炭。釜が車に積まれていて、そこで木炭を焚き、生じた蒸気がエネルギーになる。バスもタクシーもトラックも木炭車で、白くてクサ~い煙が排出されるんです。

そんな時代にあって、ガソリンで動くのは戦車だけ! しかも今の時代のガソリンより精製されていましたから、品質が高かった。薄紫色をした、綺麗な煙がす~っと出てくるんだ。その香りがまたすごくいい。

富士宮に戦車学校があったんです。そこに通う少年兵たちが、浅間神社の境内でお弁当を食べてひと休みしていましてね。実に二十台もの戦車が横に並ぶ光景でした。僕らは眺めたりさわったりして、エンジンがかかった途端、一斉に匂いを嗅ぎにいく! みんなあの香りが好きだったし、本当に綺麗な薄紫と青みがかった煙を戦車は吐き出すんだ……。

 

 

 

 

――香りは記憶に強く結びつくといいますが、とても印象深かったんですね。当時の新聞やラジオから伝えられる情報よりも、脳に鮮明に焼き付いているよう。大人と同じようには戦争を理解していない一方で、静岡が爆撃された日に、目の当たりにした光景からはどんなことを感じましたか。

 

富士宮の東に富士山があります。富士山の反対方面。西の空が赤く染まっていたのです。

夜なのに『浅間さまの向こうが真っ赤だ!』とね。

夕焼けの赤とは違います。空気を焦がす赤だった。

不気味でした。想像と現実のなかの地獄が合わさったものが、突然この世に現れたかのようで、怖かったですね。空の下の状況? ……僕には想像もつかなかった!

空襲ってね、決まって夜にやってくるんですよ。B29は一万メートル上空を飛んで移動するけれど、爆弾を落とす時は五千メートルまで降下します。そうしないと狙ったところへ正確に爆弾を落とせません。一方、その高さなら日本の高射砲の射程圏内でもあります。(撃墜を避けるため)空襲は夜に行われるんです。静岡を爆撃が襲った次の日、一緒に遊んでいた級友らと「空が赤かったな」と言葉を交わし合ったのを覚えています。

東京大空襲は真昼間でしたね。あの日の東京は、火の海というよりも血の海だったのでしょう。大人たちはもっと怖かっただろうと思いますし、子供らはそれを感じ取ってはいました。

 

 

 

 

――その恐怖や不安を肌で感じるというのも、現代に生きる私たちには体験できない現実です。そして昭和20年8月15日正午、玉音放送が流れる時刻が迫り……。

 

朝、祖父が「お昼にみんな囲炉裏に集まれ」と言いました。夏休みでしたから、いつもなら子供たちは外へ遊びに出ている時間帯です。僕と兄貴とおふくろ、疎開先には祖父母と従兄弟がふたり、叔母さんがひとり、みんなが囲炉裏に集まって、四角い木製ラジオに耳を傾けました。

しかしね……。天皇陛下が何を話しているのか、まずわからない。ラジオが古くて音が悪かったということもあり、音が朦々としていたからなおのこと。「タエガタキヲタエ……」という音は聞こえるけれど、言葉の意味がわからなかった。

でも大人たちは違う。おふくろはワンワン泣き出し、祖父母も涙を流している。僕ら子供はその姿を見て『天皇陛下がとても大事なことを話しているらしい』ということがわかった。それが僕の8月15日、戦争の終わりを理解した瞬間です。

そして今、僕は親父のことをこんな風に思っています。田舎生まれの若者が東京へ飛び出し、近衛師団兵にまでなった。その胸を突き動かしたものは何か。……親父は生まれ育った土地に居場所がなかったのではないだろうか、とね。

一度も会うことの叶わなかった親父、落下傘で不時着した米兵の運命、真っ赤に燃えた空とその下に広がる街、戦車が吐き出す美しい煙……。現実と想像と、そういったものが混じり合ったのが僕にとっての戦争です。

 

少年だった里見浩太朗さんの五感を借りて、あの夏を感じさせていただきました。ご家族とのエピソード、戦車への憧れなど鮮やかな記憶が溢れる一方で、戦況や情報については想像や理解の範疇を越えていたことも多かったそう。いつの時代も、見えるものと見えないものがせめぎ合い、人生という旅路の景色は不透明なのかもしれません。それでは現代に生きる私たちは、あの戦争を見ることができているのでしょうか? 感じ取ることはできているのでしょうか? この夏、あなたの8月15日はどんな一日になるのでしょう。

次回のインタビューでは、好青年へと成長した里見さんの芸能界デビュー、京都・太秦での撮影秘話をお届けします。

 

写真:田形千紘     文:鈴木舞

 

撮影場所:銀座うかい亭

店舗情報

 

 

 

 

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編集・構成 MOC(モック)編集部
人生100年時代を楽しむ、
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PROFILE

里見 浩太朗

昭和31年「東映第三期ニューフェイス」として芸能界入り。 翌年、『天狗街道』にてデビューし、『金獅子紋ゆくところ』にて初主演。 数多くの東映時代劇に出演し、その後はテレビ時代劇に進出。 昭和46年から15年に渡って演じたTBS系『水戸黄門』の佐々木助三郎役、 昭和58年から演じた日本テレビ系『長七郎江戸日記』の松平長七郎役は代表作となる。 昭和60年から始まった日本テレビ年末時代劇スペシャルでは『忠臣蔵』から『風林火山』まで主演を務め、 時代劇トップスターとしての地位を確立する。 平成14年からはTBS系『水戸黄門』の五代目・水戸光圀役を9年に渡って演じ、 今もなお第一線で活躍を続けるまさに「ミスター時代劇」である。 また、昭和52年の御園座八月特別公演『大江戸捜査網』より座長公演を開始し、 毎年、東京、大阪、名古屋にて「里見浩太朗特別公演」を上演。 その一方で、平成7年に発売した『花冷え』のヒットにより歌手活動も積極的に行っている。

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