人生100年時代を楽しむ、大人の生き方 Magazine

佐野史郎氏「生涯、俳優。生きている限り、問い続けていきたい」第1回

 

芸歴43年を迎えてなお、舞台、スクリーン、テレビなどフィールドを広げて走り続ける個性派俳優・佐野史郎さん。劇団の旗揚げに参加した“あの頃”や、多方面で活躍を続ける“今”について語ってもらいました。経験を積んだ“俳優の身体”を駆使し、表現者であり続けてきた佐野さんから見える世界とは?

 

――20歳のときに俳優人生を歩み始めた佐野さんですが、40数年を振り返ってみていかがですか?

 

振り返ればあっという間で。ただがむしゃらというか、がむしゃらだったですよね。その日その日が精いっぱいで、気がついたら60歳を過ぎていた。

俳優の仕事を続けてきて、じゃあただ演じる喜びのみで生きてきたかというと……いろんなことをやっていて……もちろん俳優が本業なんだけど(笑)。演じることが仕事の中心ですし、どんな役であれ演じる喜びがなければ続けられるわけないと思うんですが。それよりも、いやそれと同時にか、与えられた仕事に対して“どういう世界を生きているんだろう”という好奇心があります。“ものをつくる喜び”ですよね。“ものをつくる喜びが常にあるんだろう”っていう。

劇団シェイクスピア・シアターを旗揚げしたときも、最初はなにもわからないわけです。ただ面白いなと思っていたシェイクスピアが入り口なだけで。中学生のときにフランコ・ゼフィレッリ監督の『ロミオとジュリエット』という映画が大ヒットし、ニーノ・ロータの映画音楽も歴史に残る大名曲として、今に伝わっているわけです。当時はエンニオ・モリコーネ楽団の『夕陽のガンマン』とか、クロード・ルルーシュ監督の『白い恋人たち〜グルノーブルの13日』というフランスの冬季オリンピックのドキュメンタリー映画などがヒットしていたり。

映画を観に行って、曲がヒットしていて、ラジオの深夜放送でそれらがかかっているのを聴くのが楽しくてしょうがない。そういう音楽が好きでしょうがなかった。『ロミオとジュリエット』のオリヴィア・ハッセーがカワいくてしょうがないとかね。『卒業』を見てもダスティン・ホフマンがかっこいいな、とか。

ミーハーですよ! 最初はすごいミーハー。

ただ、映画に出たいとか音楽を演奏したいとかっていうよりも、面白い世界に触れていたいというだけで。たまたまそれが最初、シェイクスピアだった。

 

 

――思慮深く知的な印象を観客に与える佐野さんも、演劇に触れた当初はミーハーだったそう。特に心を惹きつけられたのが……

 

崇高で重々しいアカデミックなシェイクスピアというよりは、ロック。実際ロックバンドの生演奏でしたし、衣装もジーンズとTシャツで。そういう演出でした。大好きなマカロニウエスタンの映画で、エンニオ・モリコーネ楽団がフルオーケストラで演奏していても決してクラシックのシンフォニーのサウンドじゃなくて、ロックのビートが入っていて。ジミヘンを聴いてたりビートルズを聴いてるのと変わらず、映画も同じように親しんでいました。

そんな環境の中で、シェイクスピアって面白いんだと思うようになりました。ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー(英国を拠点とする歴史の古い劇団)の来日公演で『真夏の夜の夢』の劇場中継をやっているのを観たり。セットも何もない。衣装もシンプル。想像力が膨らむ、シンプルだけど豊かな舞台をつくり出していた。当時、その演出家のピーター・ブルックが『なにもない空間』という演劇論を出して、日本でも演劇のバイブル的存在だった(『なにもない空間』1968年ピーター・ブルック著、日本では1971年に晶文社より発行)。理屈はよくはわからなかったけど、ジミヘン聴いてカッコいいと思うのと一緒。音楽とか演劇とか考えずにカッコいいと思っていました。

ほかにもロマンチックな映画にときめいたりね。語りだしたらきりがない(笑)。それが60年代から70年代初頭にかけての、僕の中学、高校時代でした。

 

 

――佐野少年にとっての“あの頃”が、どんなかたちで“今”に響いているのでしょう。

 

とにかく表現の世界が好きだった。文学にしても、現代詩もすごく力があったし、映画も音楽もテレビも、何もかもにエネルギーがあった。政治的には70年安保を前にして地方都市にいても学生運動を目の当たりにしていたし。

当時は情報が限られていましたから、中学生でも、高校生や大学生と読んでいるもの見ているものが同じだったんですよね。だから、今でも団塊の世代の人たちとは話が合う。僕より10歳くらい上で、ずっとお兄さんなんだけど、同じ時代を生きてきた感覚がある。

たとえば初めて松本隆さんとお会いしたとき、「僕と会って初めて会った気がしない」と仰ってくださった。僕がメディアの仕事をしているからかと思ったら、そうじゃない。松本さんと僕は同じものを読んで、見て、同じ空気を感じて育ってきているから、同じ時代を生きてきたんだということを、説明しなくてもわかってくださって。

僕は島根県松江市、出雲の地で育ちましたが、青山、麻布界隈で育った松本さんたちの音楽に流れている空気とどこか近しいものを感じた。何が同じなのかはあとでわかるんですよね。自分の過ごした土地に根ざした言葉や音に対する愛着だったんだと。

僕が好きになった遠藤賢司さんやはっぴいえんど、高田渡さんはまさにそう。なんで好きなんだろうというのが、意識的であれ無自覚であれ、生い立ちが異なっていても、土地や人に対して同じものの見方や感じ方をしていたんだということが後になってわかった。

もちろんなにもかも一緒なわけじゃないですよ。だけど、ざっくりいうとジャンルを分け隔てないということかな。そういうところはあるかもしれない。中学、高校の時からそういう嗅覚は働いてましたね。ただし、みんながみんながそうだったかというと……。僕は日本中の人間がそういうもん(嗅覚を働かせていた)だと思っていたけど、そんな人たちばかりではないことを後で思い知らされるわけですが(笑)。

子供のときから怪談話や乱歩(江戸川乱歩)が好きだった。絵本とかは『ヘンゼルとグレーテル』や『不思議の国のアリス』、『安寿と厨子王』『金太郎』に『一寸法師』。人並な物語を読んできた。まぁ全部怪しいっちゃ妖しいか(笑)

親父も乱歩が好きだったから、その影響もあるでしょうね。小学生の時少年探偵団シリーズが流行ってたんだけど、僕みたいに熱中していた人は少なかったかもしれない。他人が好きかどうかを気にしている余裕がなかったんでわかりませんが。他人のことはわからなかった。

……というのに気が付いたのは、40歳を過ぎてからのことでした。何十年か表現の仕事をしていると結局集まってくるでしょ、好きな世界が近しい人がみんな。そういう人は決して多くはなかったかもしれないけど、ずっと続けていると結局出会っちゃうんだなという感じ。

メジャーシーン、マイナーシーン、アンダーグラウンドであるかコマーシャリズムであるかということは問題にせず、ジャンルを問わず、“何を好きか”、“何を面白いと思うか”という、言葉にできない感覚を嗅ぎ取り合うという情熱は最初から強くあったんじゃないかな。

頭で考えてはないんだけど、演出家にしても監督にしても「あ! なんか面白そう!」という感覚。そうした人たちと出会ったときは最初は全然わからないですよ、なぜ面白いと思ったのかは。

 

 

――好きになったらのめり込む。気持ちと行動が一致していますね。

 

そうですね。思い立ったらすぐ行動するパターン。ちょっと気になることがあると突き進む。若いころから変わらない。「はっぴいえんどがいい!」と思ったら、中津川フォークジャンボに行っちゃう。16歳で切符片手に。だけどそういうことを人はあまりしないらしい(笑)。でも僕はしちゃうんだよねぇ。たぶん今日も行っちゃうと思うんだよ。

 

――これからですか? 一体どちらへ。

 

キティー・デイジー&ルイスっていうロックンロールバンドがあるんですけど、来ているんですよ。昨日知っちゃった。今日は当日券変えるかなぁ……。(行けました!!カッコよかった〜🎶)好きなバンド(ソニック・ユース)追っかけて名古屋まで行っちゃったこともある。

フィオナ・タンの展覧会の時もそうだった。「どうしても見たい!」ってなるともう大阪まで行っちゃう。でも、相当の「どうしても」じゃないと行かないですよ。

だから、僕はなんでもかんでも見てきたわけじゃない。状況劇場にいたのに有名なアンダーグラウンド劇団をそんなに観てない。天井桟敷は見ていないし、黒テントも見たことない。自由劇場も見たことないし。あ、最後に一回見にいったか。

なんだか……そんなに演劇を知らないしね。映画もそんなに観ているわけじゃないし。読んでいる本も偏っている。

 

――「面白そう」を嗅ぎ取る嗅覚が刺激されたのは、どんな出会いのときでしたか。

 

それはもう、座長の唐十郎。唐さんのお芝居を見たときですよ。あまりにも圧倒的で、凄すぎて。といっても劇団に入ろうとか、近くにいたいとか思ったわけじゃないけどね。なんたって怖いですからねぇ。

でも、そういった人たちの交友関係には触れてみたいので、文章を読んだり舞台を観に行ったりはしていました。たとえば四谷シモンさんの人形展があれば行ってたし、金子國義さんの個展があればギャラリーに行くし。唐さんと直接会う前からそういった世界に触れて、足を運んで。

僕は一年間だけ、中村宏という画家について、絵を学んでいました。一年間やってこりゃダメだと思って。絵は諦めたんですが。僕が絵を学んでいたのは、ドイツ文学者の種村季弘さんや画家の赤瀬川原平さんなどが教えていた美学校(1969年創立)でした。講師には他にもインド哲学の松山俊太郎さんとかいてね。とにかくアカデミズムとは無縁のシュルレアリスムやマニエリスムを背景とした空気に触れていたかったんです。

 

――アーティスティックな刺激に対するアンテナを張り巡らしているようですね。育ってきた環境がそうだったのでしょうか。

 

幼少期は東京で暮らしていたのですが、両親の友人の画家と一緒に遊んでもらっていました。画家が絵を描いているのを傍で見たり、お絵描きしたり、美術館に連れて行ってもらったり。そういう経験は、いま振り返っても大きかったかもしれない。西洋美術館が出来たばかりの頃で 上野の美術館には度々行っていましたから、その影響は大きかったかも。

両親も音楽が好きで、父がヴァイオリンをたしなんでいたり。秋葉原で部品を買ってきては真空管ラジオやアンプを自分で作ったりする父親でした。医者でしたし理科系の人だった。あと写真も好きでね。父が現像や引き延ばしをしているところを、間近で見ているのが好きでした。押し入れの中で現像タンクを一緒に回していたことや、現像液の匂いも好きでした……。

松江に移ってからもそうです。母方の実家が出雲大社の写真館だったので、その空気がね。カラーフィルムの前の時代でしたから、職人さんがスポッティングしている。その鉛筆の長い芯で修正しているのをずっと見ていた。表現に対する興味に至るのにはいろんな要素がありましたよね。写真館も大きいですね。

今は自分で撮るのも好きですが、でも以前は写真を観るのは好きだったけど、音楽や映画や芝居に目覚めたころのような、ギターを一所懸命弾くとか本を一所懸命読むとかというのと同じじゃあなかったですね。

 

 

 

――今ではカメラが大好きなようですが、当時は違う感覚だったんですね。

 

あまりにも写真が当たり前にあったので。父は最初はミノルタの二眼レフを使っていました。あとはコンパクトなハーフサイズカメラ、オリンパスペンが出てきてさらに写真が身近になっていきました。中学生の頃、コダックのトイカメラみたいなカメラは使ってましたけど、「写真だ!」みたいな気持ちにはなっていなかったです。ただ観るのは好きで、森山大道や中平卓馬や細江英公、70年代にそういう写真には触れていましたね。

意識的に自分で写真を撮るようになったのは、これまでも取材でもよく話してますけど、自分で初めて映画を監督(『KARAOKE』1999年公開、佐野史郎監督)した1999年くらいからですね。

それまでコンタックスのT2というコンパクトカメラを愛用していて。それでなんとなく地方ロケなどに行くとスナップを撮っていた。写真が好きで撮っていたというよりは、気が付いたら映画で使いたいようなカットをたくさん撮っていて、無自覚にロケハンしていたってことなんですよね。

無自覚に撮っていたものを改めて(写真で)見てみると、「あぁ、自分はこういうことを観ているんだ」ということを再認識した。“俳優の身体”になっているときに自分が何を見ているのか、ということが自覚的になってきたんでしょうね。

それからは意識的に撮ってます。でも、今日もライカで撮ってもらったけど(本記事の撮影)、最初に僕がレンズに目覚めたきっかけは、古いコンタックスのⅢaでした。海外ロケに行ったときに安く見つけて、実際に撮ってみたら「お~!」と思って。やはりレンズが違う。柔らかい。その頃は愛用していたツァイスのレンズが付いたT2も出ていましたけど、やはり昔のレンズは違いましたね。その後、国産でライカのLマウントが使えるフォクトレンダーのカメラが出てね。

カメラとの出会いのタイミングがよかったんですよ。それまで便利さを追求していた日本のカメラが一度立ち戻って、レンジファインダーカメラに戻るような流れの時だった。

その流れと、自分は写真を好きだったんだと意識したタイミングが合った。世の中の流れというか、時代の気配ってあるじゃないですか。バブル経済が崩壊して、無駄に豪華になっていたものがすべて崩壊して、シンプルに戻った。音楽もそうだけどね。その流れと自分の意識とが合った。

 

思い立ったらすぐ行動。クールな印象を抱かれがちな個性派俳優の、熱い一面を知れました。まるで心に灯った興味を体で燃やしているかのよう。そのキーワードはどうやら、〝俳優の身体”であるらしい。

 

 

 

 

 

佐野史郎氏「生涯、俳優。生きている限り、問い続けていきたい」第2回

佐野史郎氏「生涯、俳優。生きている限り、問い続けていきたい」第3回

 

 

写真:田形千紘 文:鈴木舞

 

編集・構成 MOC(モック)編集部
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PROFILE

佐野 史郎

1975年に劇団シェイクスピアシアターの創立メンバーとして初舞台を踏む。1986年映画「夢みるように眠りたい」で映画初主演。ドラマでは1992年TBS「ずっとあなたが好きだった」での冬彦役の演技が話題に。その後も、TBS「誰にも言えない」やフジテレビ「沙粧妙子・最後の事件」のほか、2016年日本テレビ「ヒガンバナ」などのドラマに出演している。また、映画「ゴジラ2000ミレニアム」に宮坂博士役で出演。NHK「音で怪獣を描いた男 ~ゴジラVS伊福部昭~」などのドキュメンタリーにも出演している。第30回ゴールデンアロー話題賞、第30回ギャラクシー賞を受賞。

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