今回、西寺「ポップ・ステーション」駅長が立ち寄ったのは、世界でいちばん乗降者数が多い鉄道駅として知られる東京・新宿駅。東口を降りると、「笑っていいとも!」で知られたスタジオアルタが目の前にあり、その横の通りを抜けていくと歌舞伎町の入口が見える。日中は買い物客や外国人観光客で賑わい、夜は大人たちの社交場になっていく、大都市・東京のなかでもきってのダウンタウンは、西寺駅長にとっても想い出深い場所だそうだ。そこで今回はいつもと少々趣向を変え、西寺駅長にはこの街を背景にした大学時代のエピソードを語ってもらった。
──今回下車した新宿といえば、駅のホームでU2に出くわしたっていうエピソードを前に話してましたよね?
そう、その時にも話しましたけど、大学一年から二年の頃まで、靖国通りの松竹ビデオハウスでバイトしてたんです。大学に入って最初のバイトは早稲田の今は無き第二学生会館地下にあったイナフジっていう老舗のリハーサル・スタジオだったんですけど、そのあと松竹ビデオハウスで。レーザーディスク専門店でした。僕にとって二十歳までのその2年ぐらいっていうのは、親元を離れて上京して、初めて音楽漬けで自分勝手に過ごせてたっていう、言ってみれば夢みたいな時間で(笑)。で、その時に多くの時間を過ごしていたのが新宿なんですよ。それでまあ、歌舞伎町のこのあたりもよくウロチョロしてて。
──現在はゴジラでおなじみの東宝ビルがドーンと立ってますが、当時はここに新宿コマ劇場があって、恵比寿に移ったリキッドルームもこの近くでした。
そうそう、ノーナ・リーヴスも新宿時代のリキッドルームでよく演奏してましたね。それよりちょっと前の学生時代にも屋敷豪太さんのソロ・ライブ観たり、思い出深いライヴハウスでしたね。そこ以外にもめっちゃ景色が変わってて、ひさしぶりに来てびっくりしてますよ。2002年から、世田谷方面に住んでるんですが、そう滅多に新宿に来ることもないですから。とくに歌舞伎町もこっち方面は。工事してるなーとは思ってましたけど、びっくりです。そう、このあたりの町のエピソードでね、思い出すと恥ずかしくなるような話があるんですよ。
──ほぉ。
僕ね、東京に住んで25年以上経っていまだに関西弁が残ってますけど、丁寧にしゃべらなあかん時とか初対面の人相手には無意識に標準語になってたりするんですね。関西弁とか、京都弁って敬語表現が伝わりづらいというか。ただ今は流れに任せてますけど、上京したばっかの頃は、絶対に東京の言葉を使わへんぞ!っていう、そういう意固地な時期があったんですよ。「東京に飲み込まれたら負けや」みたいな(笑)。で、その頃の話なんですけど、このへんの路地を夜中に歩いてたらね、厚化粧したおばあさんが近づいて来て「5千円でどう?」みたいなこと言うてきたんです。
──今はほとんど見かけなくなりましたが、娼婦というか、立ちんぼですね。
で、僕もまだ18歳の頃ですよ、めっちゃ怖いから無視して歩いてたんですけど、そのおばあさん、しばらくついてくるんですよ。もう、ホント怖くなってね。思わず「もういいよぉ!」って、その時に自分史上標準語を初めて使ったんです(笑)。あんだけ標準語使わへん言うてたのに、超ビビって「もう来ないでくれよ!」とか必死で標準語で言った自分がすごく恥ずかしくかったの思い出します(笑)。なんかね、「もうええって!」とか「ええ加減にせえよ!」とか、あまりの怖さに言えなかった。なんとか追い払いたいっていう一心で、向こうに可能な限り伝わる感じで言おうって思ったんでしょうね(笑)。
──(笑)。そういえば当時、郷太さんが住んでいたのは新宿からもほど近い東中野でしたっけ?
そうですね。でも、大学一年までは大久保にある母方の実家で世話になってました。たまたま早稲田近辺がうちのおかんの地元だったんですよね。都立戸山高校に通ってて。普通、母親の実家に帰省することを「田舎に帰る」とか言うじゃないですか。「里帰り出産」とか。うちのおかんの場合の田舎や里が東京だったんですよね。だから、飯田橋にあった東京警察病院で僕は産まれてます。今は、中野に移転してますけど。そんな感じで、春、夏、冬の休みの時期は祖父母の住んでる大久保に毎回来てました。特にロックやポップにハマってからは新宿のレコードショップとかに通いまくりで。東京大好きでしたね。で、本当は最初からひとり暮らしがしたかったんですけど、しばらく祖父母の家に居候してて。祖父がもう病気で寝たきりだったんで、祖父の薬を荻窪の病院までもらいに行ってあげるとかはしてましたね。祖父の薬をもらって来ると、おかんは1万円くれましたから(笑)。
──割の良いバイトですね(笑)。
自分の人生を振り返ると、金銭的には甘やかされて育った気がしますね(笑)。一応東京で大学行かせてもらって、こんな近いところに祖父母の家あるし居候するのが当然かなぁなんて最初は思ってたんですけど。しばらくしてやっぱり一人暮らししたいなって思って。女の子とか自由に部屋に呼びたいですしね(笑)。大学一年の終わりに、意を決して、親父に電話したんです。申し訳ないけど一人暮らしさせてくれないか、って真剣に。そしたら「いいよぉ」って、あっさり言われて(笑)。「はよ言えば良かったんや」って思いましたね(笑)。それで住み始めたのが東中野。祖父祖母の家からも近いし、バイト先の新宿にも近いし、大学にも近いっていうところで。そこに住んでた2年間も楽しかったですね。
──当時、奥田さんが住んでいたのも同じ中央・総武線沿線でしたよね。
奥田は阿佐ヶ谷に住んでて。そう、奥田と小松は僕の歴代の家に現在までに多分千回以上は来てるんですけど。曲作りとか自宅レコーディングで。僕ね、奥田の家に行ったのってこれまでに2回しかない(笑)。20数年バンドやってんのに(笑)。家の前まで送っていったこととかは何回あってもね、家の中にあがったことは2回。1回は、90年代後半、ノーナ・リーヴスがCD出したくらいの阿佐ヶ谷の家。ノーナの最初のCD『サイドカー』を出した頃で、家にあがったらね、なんかスピーカーの凹みのところにちっちゃいブタかカエルの人形みたいなの置いてて。そんなとこに物置いて大丈夫なんかなって思ったのと、こいつめっちゃかっこつけてるけど可愛らしい人形置いとるやん!って(笑)。その頃ね、奥田って今よりもっとクールなイメージだったんですよ。滋賀の膳所高を出てるカシコですし、早稲田商学部もストレートに入って、ピアノもできてギターもできて……。音楽の趣味も良かったですし。好きな雑誌も「dancyu」とかで。高円寺の「桃太郎寿司」でも、400円くらいする「みる貝」とか「つぶ貝」とか連続で食べるんで後輩なのにすげーなと、一食に2000円以上余裕で使うん?君!みたいに俺が言ったら「食べたもので体は出来てるから、そこは惜しまない」みたいなこと言われて(笑)。100円の皿ばっかり狙って食べてた小松と俺は「すんません!」みたいな(笑)。なんかね、世の中をなめてる感じだったんですよ(笑)。それなのにかわいらしいブタの人形ですよ(笑)。ま、今、レキシとかでコミカルな扮装とか喜んでしてること考えると、そもそも俺が勝手に勘違いしてたんでしょうね(笑)。
──距離感縮まりますね(笑)。
で、2回目に行ったのは、ノーナがコロムビアに移籍した頃だったと思うんですけど、2人だけで久々に曲作りをしようってことで行ったんですけど、奥田が学生時代から使ってたテレビデオで「やすし・きよし」の漫才のビデオを観てたのを憶えてます(笑)。まぁ、どうでもいい話ですいません(笑)。
──新宿の話に戻りますが、松竹ビデオハウスでバイトしていた時にはどんな想い出が?
マーヴィン・ゲイの回でも話してますが、ビデオとかも自由に観れたし、繰り返し音楽を聴くということがバイト中にできたんですよね。あとは何と言っても、店長の和田さんという方に頼んでプリンスの来日チケットを買ったら、武道館の5列目センターっていうとんでもない良席が届いたこと。96年1月の〈ゴールド・ツアー〉ですよ。これは僕の著書「プリンス論」でも書いてますけど、そこであらゆる楽器を演奏して、歌って、踊っていたプリンスを観た時に、僕がプリンスのライヴや作品に払ったお金が彼の音楽の役に立ってるかもしれないって思えたんですよね。当時、ノーナの活動は少しづつ軌道に乗りはじめていて、この年の終わりには『サイドカー』が出るんですけど、僕は“プロのミュージシャンって何なんだろう?”ってずっと考えていた頃で。たとえば、男前だからプロになれるのか、歌が上手いからなれるのか、ギターが上手いからなれるのかって……そういうことでもないじゃないですか。
──たしかに。
そういう時にプリンスを観て、子どもの頃から彼のレコードやCDを買ったりビデオを買ったりしてたそのお金がいくらかは彼の役に立ってるっていうふうに思えて、同時代の天才を自分が支えてるかも知れないっていう、それをダイレクトに感じたんですよ。つまり、人にそうやって思わせることができればプロになれるんだなって。仮にですけど、プリンスがコンビニでバイトしてたとして、曲を作る時間も削られ、思うようにライヴもできないってなったら、「そんなことやめて音楽作ってくださいよ。もっと僕たちにあなたの作った音楽を聴かせてくださいよ」って思うじゃないですか。そうやって思わせることできたから、現在のプリンスがあって、まあ、僕の現在もあるわけなんですよね。そういうことを教わったのが〈ゴールド・ツアー〉で、そのライヴを観てなかったら、観ることができても後ろのほうの席だったら、そこまでの感覚は芽生えなかったかも知れないですね。あの日のライヴは、それ以降に観たいろんなアーティストのライヴを含めてもナンバーワン。きっと生涯1位は揺るがないですね。
〈ゴールド・ツアー〉を良席で観てなかったら──そもそも松竹ビデオハウスでバイトしていなかったら、ミュージシャン・西寺郷太の覚醒はもっと遅い時期、もしくは覚醒していなかったかも知れない。そんな運命的な出会いを、大学生活最初の1〜2年で経験した駅長。しかし、そんな奇跡はこのあとにもまた訪れる。そのお話は続く中編で。
写真:杉江拓哉( TRON) 取材・文:久保田 泰平
編集・構成 MOC(モック)編集部
人生100年時代を楽しむ、
大人の生き方マガジンMOC(モック)
Moment Of Choice-MOC.STYLE