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西寺郷太の「ポップ・ステーション」駅:其の七 プリンス

 

 

想い出の街・新宿で、ノーナ・リーヴス結成へと向かうカレッジ・デイズを3回に渡って回想してくれた西寺駅長。今回は、そのドラマティックなエピソードのなかにも登場したプリンスのお話を。2015年に著書「プリンス論」を上梓しているだけに、プリンスのことなら果てしなく語り続けられであろう西寺駅長ですが、今回は、取材当日に持参していただいたアルバム『アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ』を切り口に話題を広げていただきました。

 

 

──駅長のiPhoneに貼ってあるステッカーが気になるんですけど。

 

これ、〈エレクトリック・フィータス〉っていうミネアポリスのレコード屋さんのステッカーで、プリンスもよく行ってたお店なんですよ。亡くなった夜、直前にも「エレクトリック・フィータスのサイトで新しいアルバム売ってます」みたいなツイートしてて。それが最後の「つぶやき」だったんです。

 

 

 

 

──常連だったわけですね。

 

そう、それにその前のアルバム『ヒット・アンド・ラン フェーズ・ツー』は、最初デジタル・リリースのみだったんですけど、CDパッケージ作ってくれたと思ったら、世界中でミネアポリスの〈エレクトリック・フィータス〉だけの限定販売だったんですよ。すごくないですか(笑)?世界中からファンが買いに行ったりしたくらい大切にしてたお店で。ま、それにしても最後のツイートが「エレクトリック・フィータスのサイトで新しいアルバム売ってます」ってのは流石に予想外だったでしょうね。そこだけとってもプリンスは本当にあの夜、自分が死ぬとは思ってなかったんやなあって。あまりにも急な死だった、と。もしも、万が一ですよ、あぁ自分は今夜死んでしまうのかなって思っていたとすれば、彼なら“GOD LOVES U”みたいなカッコいいツイートすると思うんですよ。でも「エレクトリック・フィータスでCD売ってます、よろしくね」みたいなツイートが最後だったわけです。その夜から一回も更新されてないですし、本当にプリンス自身がツイートしてたんだなぁ、と。だから、携帯のケースに挟んだり、ギターに貼ってみたり、このステッカーを大事にしてるんです。

 

 

 

 

──駅長は、プリンスが亡くなった直後にミネアポリスに行かれてましたよね。

 

ですね。2016年の4月21日に亡くなって、その10日後ぐらいに行ったんです。たまたまゴールデン・ウィークの一週間レコーディング予定だったんですが、なんとかずらせたんです。取材とか仕事とかそういうんじゃなくて、普通に自費で行きました。すごく悲しかったけど、あのタイミングで旅出来て本当に良かったなって思ってます。プリンスの熱狂的ファンでミネアポリスに移住されたMIHOさんという女性にもお世話になりました。いろいろ教えていただいて。そう、今日はね、『アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ』(85年)のLPを持ってきたんですけど、ミネアポリスの空ってね、まさにこんな感じなんですよ。雲がぷくっと浮かんでて。

 

 

 

 

──ほう。

 

プリンスはいつも、このミネアポリスにあるペイズリー・パーク・スタジオからいちばん近い空港に自家用機を停めていて、そこからLAに飛んだりしてたんですけど、その空港の名前が、フライング・クラウド空港って言うんです。

 

──飛んでる雲、という。

 

まあ、そもそもペイズリー・パークがある場所は、田舎というか長閑なところってことなんですけどね。で、ミネアポリスに着いて、さっそくレンタカーを借りて、ずっとプリンスを聴きながら、プリンスが生まれた病院、プリンスが幼少時に暮らして離婚したお父さんが残していったピアノを弾いていた家、そのあとお母さんに新しい恋人ができて、家にいたくないからって転がりこんだアンドレ・シモンっていう友達の家……。

 

──アンドレ・シモンはプリンスがデビューした当初のバンド・メンバーですね。

 

そう、そのアンドレの家、まあ実家ですけど、そこには地下室があって、そこでプリンスとアンドレは朝から晩までセッションしてたっていう。それ以外にもプリンスが初期にライブしていた会館、通った中学、高校や、映画「パープル・レイン」の舞台になった〈ファースト・アベニュー〉っていうライヴハウスにも行きましたね。高校の前では、観光客相手の絶対パチモンやろっていうプリンス・グッズ売ってる店が出来てて、若い奴らがアイロン持ってプリンスのシンボル・マークをグッズにせっせと印刷してました(笑)。ネットで送るんですかね。ホカホカのティー・シャツが並んでて、悲しいけど笑えてきてなんだかなぁと(笑)。でも地元のヒーローだったことは伝わってきましたね。プリンスっていう人は、あれだけスターだったのに、生まれて亡くなるまで基本ずっとミネアポリスに住んでたわけですよ。そういうのって、珍しいですよね。

 

 

 

 

──NYとかLAとか地元が都会だったらまだしも。

 

でしょ。ミネアポリスは湖も河も流れ、もちろんそこまで田舎ってわけではないんですけど、やっぱりNYやLAほど音楽やる意味では便利ではないと思うんですよね。特に当時はファイルの送信とか、ネットもないわけですし、データのやりとりとか難しかったはずですし。まあ、日本だってだいたい東京近辺で暮らすじゃないですか。生まれ育った土地にずっと暮らし続けていたっていうのはプリンスのひとつの特徴ですよね。実際に行ってみて、『アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ』みたいな空を見上げながら、プリンスの見ていた景色ってこういう感じやったんだなあ……って、感慨深いものがありました。そんなこともあったので、プリンスのアルバムはどのアルバムも好きですけど、いま一番好きなアルバムは『アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ』かも知れないです。

 

──プリンスが残したアルバムのなかでも、ジャケットの雰囲気が明らかに違いますし。

 

でもまあ、このアルバムとその次の『パレード』(86年)っていうのは、ザ・レヴォリューションのメンバーだったウェンディ・メルヴォワン(ギター)とリサ・コールマン(キーボード)っていう音楽教育を受けたド天才にある意味意図的に乗っ取られたようなアルバムなのかなぁ、って気がします。

 

 

 

 

──その2人、レヴォリューション解散後にはウェンディ&リサとしてデビューしましたし。

 

プリンスって小さい頃から猛練習で楽器をマスターしていたとは言え、基本独学の人なので。お父さんがジャズ・ピアニストだったと言っても、直接何かを学ばせてもらったっていうわけでもないですし。少年時代に、それこそ白人向けのラジオで流れていたロック、ハード・ロックだったりっていうのがプリンスのもともと持っていた資質で。ミネアポリスはNYとかに比べても圧倒的に黒人が少なかったんですよね。だから、ヒップホップがそれこそブルックリンとかで成長してゆく70年代、プリンスは10代だったけれど、ミネアポリスにはそこまで伝播してないんですよね。という意味で彼が全部の楽器を演奏したファーストの『フォー・ユー』(78年)から4枚目の『戦慄の貴公子(Controversy)』(81年)あたりまではプリンス100%の世界が展開されてます。どんどんパンクとかニュー・ウェーヴに影響されて、ロック・バンド的になっていったんですけど、『1999』(82年)でバンドにリサが加わって、『パープル・レイン』(84年)ではウェンディも加わって、彼女たちの切れたアイデアや、独自のコード感が徐々に作品に盛り込まれていくようになるんです。

 

──ウェンディのお父さんは、マイク・メルヴォワンっていう有名なジャズ・ピアニストですよね。双子のお姉さん、スザンナもシンガーとしてレヴォリューションに加わりましたし、いわゆる音楽家系という。

 

サックスのエリック・リーズなんかもそうでしたけど、ジャズとかクラシックを通ってる、音楽を学問として学んできた人のアカデミズムみたいなものが、プリンスにとっては新鮮だったと思うんですよ。それで、2人が出してくるアイデアとかも「これええやん!」みたいな感じでどんどん採り入れてた時期だったと思うんですよね。だけど、ある時に怖くなったんじゃないかなぁ、と。プリンスって僕はすごくフェアな人だったと思ってます。『パープル・レイン』『アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ』や『パレード』は、プリンスの単独名義ではありません。プリンス&ザ・レヴォリューション。皆は、何もかもプリンスが決めていた独裁制みたいなイメージがあると思うんですが、もちろん独裁的であったとしても「バンド名義」の作品なんです。まさに、プリンス自身が「ザ・レヴォリューション」を不思議なマジックが生まれる仲間、パートナーだと感じていたからじゃないでしょうか。音楽を学んできた人たちと初めてぶつかり合ったプリズムっていうのは、かなり眩しかったんじゃないでしょうか。「ザ・レヴォリューション」って、たとえばビートルズのような共同体だったのかな?と。その三作のようなアルバムって、あのあとには作れてないし、作ろうともしていないんです。

 

 

 

 

──そうですね。

 

そのあとの『サイン・オブ・ザ・タイムズ』(87年)以降、“プリンスは失速した”みたいなことを言う人も多かったんですけど、それはプリンスがまた「ソロ」に戻ったからで。

 

──プリンスという天才が持つ音楽性をレヴォリューションがエンターテインさせていたと。

 

プリンスが自分らしさを取り戻そうと思って作ったのが、二枚組『サイン・オブ・ザ・タイムズ』であり、『ブラック・アルバム』(87年12月にリリースのアナウンスがされていたが、直前で発売中止。94年に正式リリースされる)であり、『LOVESEXY』(88年)……だったんだろうな、と。まあ、『LOVESEXY』含めその時期はラテン・リズムの権化で盟友シーラEのパワーも強かったですけど。で、過小評価されがちなんですが、プリンス自身がもっとも極限まで削ぎ落としたアルバムが『バットマン』(89年)だったと思うんです。映画というテーマと挿入される演者のセリフのコラージュに引きずられがちですが、僕は原点回帰のパーソナルでピュアな作品だと感じてます。プリンスがもう一回『戦慄の貴公子(Controversy)』(81年)をやろう、あの時期の自分のエナジー、つまり誰かと混ざらない音世界を約10年後に取り戻そうと思って作ったアルバムだと。例えば、一曲目の「The Future」は「Controversy」と、四つ打ちビートの展開の少なさで相似してますし、「Scandalous」と「Do Me Baby」の、ソウル・バラード感にしても、このアルバムをもって薄いとか軽くなったって言ってた人の気持ちが、僕にはあまりわからないですね。そういう人は、「プリンス&ザ・レヴォリューション」のファンだったんでしょうね。それをプリンスだと誤解してしまった。全然悪いことではないですが。ビートルズが好きでも、ポール・マッカートニーのソロはピンと来ないひともいる。『1999』あたりから、同時代的にハマった場合、プリンス自身の本質を汲み取るのは難しかったでしょうね。

 

──90年代に入ると、プリンスのバンドはニュー・パワー・ジェネレーションになります。

 

プリンス&ニュー・パワー・ジェネレーションの『ダイアモンズ・アンド・パールズ』を出したとき、プリンスは「このアルバムこそが『僕の音楽』なんだ」って言ったんですよ。つまり、レヴォリューションは良くも悪くもそうじゃなかったってことなんですよね。レヴォリューション時代っていうのは、メンバーとの才能や想いのコンクリフトのなかで音楽を作ってたっていうことだから。まさにバンドですよね。そういう意味で、僕は「プリンス&ニュー・パワー・ジェネレーション」は、ポール・マッカートニーとウィングスみたいな時代だったんじゃないかと、いつも主張してます。ビートルズは好きだけど、ウィングスを好きじゃない人もいる、みたいな。

 

 

 

 

──なるほど〜。

 

その嗅覚はすごい。メンバー集めやフックアップ、育成も神がかってます。でね、レヴォリューション期で大好きなエピソードがあって、それは、プリンスが「レヴォリューション初期」にカルチャー・クラブにハマッてたっていう話。『パープル・レイン』を作ってる時にカルチャー・クラブのアルバムばっかり聴いてたそうなんです。それというのもやっぱり、ボーイ・ジョージが女装してて、まあ、のちにゲイだったと伝えるわけですけど、黒人のマイキー・クレイグとユダヤ人のジョン・モス、白人のロイ・ヘイっていう異人種が混じって、ジェンダーのイメージも混じった編成に、彼はシンパシーを見出したんじゃないか、と。もちろん、プリンス・バンドに白人女性ゲイル・チャップマンが入った方がタイミングが早いですし、お互い影響を与え合っていたと思うんですが。レヴォリューションにはリサとウェンディみたいな白人女性もいれば、ブラウン・マークみたいな黒人のベーシストがいて、キーボードのマット・フィンクと、ドラムのボビー・Zは白人男性っていう。って考えると、プリンス&ザ・レボリューションって、黒人がプリンスとブラウン・マークだけであとは白人なので多数決で言えば白人優位なんですよね。

 

──しっかり影響を受けていたわけですね。

 

さらに掘り下げると、マルコム・マクラーレンとヴィヴィアン・ウエストウッドがロンドンで経営していた〈SEX〉っていう店でバイトしてたのがボーイ・ジョージだったわけで、彼らが生み出したアダム&ジ・アンツ、そのメンバーで作ったバウワウワウなんかにも注目していたし、アダム・アントの海賊ルックはプリンスもそうだし、マイケル・ジャクソンも真似したりしてますからね。マルコムとヴィヴィアンがいなかったら『スリラー』もなければ『パープル・レイン』もなかったんじゃないかなって考えると、ピストルズと『パープル・レイン』『スリラー』が繋がるというか。マルコム・マクラーレンとヴィヴィアン・ウエストウッドががロンドン・パンクを仕掛けて、それがマイケルやプリンスにも行き着いてると思うと、黒人音楽、白人音楽、アメリカ、イギリスって国境や人種で分けるのもすごくナンセンスに感じますね。プリンスは、その時代なりの、自分にとってのパンクだったりニューウェイヴを求め続けた人だったんじゃないかな?と。シンボルマークに名前を変えてみたり、レコード会社との契約をやめて自分で作ってみたり。最後の時期の地元ミネアポリスのレコード店〈エレクトリック・フィータス〉への異様な肩入れとかも「既成概念の逆を行く」「目に届く範囲で」っていう精神というか。

 

 

 

 

──たしかにそうです。

 

90年代になろうとする頃には、トレンドがニュー・ジャック・スウィングになったり、90年代になればもう少し自然体のアシッド・ジャズが流行ったり。ただ決定的なことは、そこにはもう、海賊ルックみたいなキメキメのファッションが必要なかったってことですよね。

 

 

ということで、新宿の街を訪れてのトーク・セッションはここまで。西寺駅長、次回はどの街に、どの駅に降り立つか。そして、トークのテーマは如何に!? to be continued…

 

 

写真:杉江拓哉( TRON)   取材・文:久保田 泰平

 

 

 

 

西寺郷太の「ポップ・ステーション」新宿駅 90s〜西寺郷太のカレッジ・デイズ(前編)

西寺郷太の「ポップ・ステーション」新宿駅 90s〜西寺郷太のカレッジ・デイズ(中編)

西寺郷太の「ポップ・ステーション」新宿駅 90s〜西寺郷太のカレッジ・デイズ(後編)

西寺郷太の「ポップ・ステーション」駅:其の八 1995-1999〜ノーナ・リーヴスを動かした街、下北沢

西寺郷太の「ポップ・ステーション」駅:其の八 1995-1999〜ノーナ・リーヴスを動かした街、下北沢(中編)

西寺郷太の「ポップ・ステーション」其の八 1995-1999〜ノーナ・リーヴスを動かした街、下北沢(後編)

 

 

編集・構成 MOC(モック)編集部
人生100年時代を楽しむ、
大人の生き方マガジンMOC(モック)
Moment Of Choice-MOC.STYLE

 

PROFILE

西寺 郷太

1973年東京生まれ京都育ち。早稲田大学在学時に結成したバンド『NONA REEVES』のシンガーであり、多くの楽曲で作詞・作曲も担当している。音楽プロデューサー、作詞・作曲家としては少年隊やSMAP、V6、KAT-TUN、岡村靖幸、中島美嘉などの多くの作品に携わる。また、ソロ・アーティスト、堂島孝平・藤井隆とのユニット「Smalll Boys」としても並行して活動。そして、日本屈指の音楽研究家としても知られ、特にマイケル・ジャクソンをはじめとする80年代の洋楽に詳しく、これまでに数多くのライナーノーツを手がけ、近年では80年代音楽の伝承者として執筆した書籍の数々がベストセラーに。代表作に小説「噂のメロディー・メイカー」(扶桑社)、「プリンス論」(新潮新書)など。テレビ・ラジオ出演、雑誌の連載などでも精力的に活動し、現在WOWOWのインターネット番組「ぷらすと」にレギュラー出演中。

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