人生100年時代を楽しむ、大人の生き方 Magazine

権威と正義の反対側をこの目で見る。田原総一朗 流「ドロップ・イン」の生き方【第1回】。

 

 

ブラウン管の中で、論客達が火花を散らせて討論を交わす。そんな光景を生み出したのが、ジャーナリスト・田原総一朗氏だ。企画からキャスティングまでこなす司会者として、自ら討論に参加しては疑問を追求し、テレビジャーナリズムに血を通わせてきました。戦中、戦後を生きてきた田原氏は、著書『80歳を過ぎても徹夜で議論できるワケ(2014年、角川新書)』にあるように、今なお現役で弁舌を揮っています。第一回目のインタビューでは、ジャーナリストになったワケ、人生のポリシーなどを語っていただきました。

 

 

──1960年に早稲田大学文学部を卒業した田原さん。卒業論文では作家・森鴎外をテーマとしたそうですが、森鴎外のどういったところに着目したのでしょう。

 

僕らの時代で代表的な作家といえば、森鴎外か夏目漱石だった。なぜ僕が鴎外の研究に取り組んだかというと、鴎外は軍医なんだよね。大学卒業後に陸軍軍医となり、最終的には軍医総監に就任した。つまり軍医のトップです。

彼の面白いところは、体制内に身を置きながら書くものはラジカルであったところ。軍医は完全に体制だよね。体制のトップが非常にラジカルだった。彼は天皇についても書いてる。

森鴎外のような生き方を「ドロップ・イン」と僕は呼んでいる。ドロップ・アウトという言葉はよく使われているけど、ドロップ・インが意味するのは「組織の中にいながらやりたい放題やる」という姿勢(笑)。自分の好奇心に従って行動し、まったく妥協しない。それを鴎外から学んだ。

僕は「好きなことやるぞ」と思って生きてきた。最初はね、作家になりたいと思っていた。

 

 

 

 

──お~、文学青年!田原さんは「コレだ!」と思ったらとことん追求していそうですね。

 

完全に。作家になるには早稲田の文学部だと思い、夜間部を受けた。というのも、早稲田の同人雑誌に入りたかったからだね。

僕の家は貧しかったので、昼間はJTBに勤めながら小説を書いていたの。そうして過ごしていたある日、書店に並んでいた本を手に取った。石原慎太郎の『太陽の季節(1955年度文學界新人賞受賞)』だ。それを立ち読みして「……これは参った」と思った。極めてリアリティのある内容でね。対して、僕が書いた小説には全くリアリティがなく、古い作家の真似ごとでしかなかった。恋人がいないのにいるようなフリをしているような、ね。僕は石原慎太郎のリアリティに参ったんだ。

そして、大江健三郎。『飼育(1958年芥川賞受賞)』という小説で芥川賞をとった。今読んでみると普通なんだけど、翻訳調の文体が当時は新鮮だった。

この二人の小説を読んで「これじゃぁ僕は駄目だ」と作家の道を挫折した。

 

──そんな田原さんが政治問題に切り込むジャーナリストになったのはなぜでしょう?

 

この国を動かしているのは政治だからね。

 

 

 

 

──つまり、自分が生まれ育った「国家」に対する好奇心が強かった。2016年、選挙権年齢が20際から18歳に引き下げられました。しかし若者の投票率は低いようです。

 

一番の問題は、若い連中が政治に関心がないこと。春香クリスティーン(1992年スイス出身)というタレントがいたでしょう。割合、僕と彼女は仲が良かったんだけど、彼女は日本に来てびっくりしたそうだ。スイスやフランス、アメリカでは、若い大学生同士が政治を話題に意見を交わしている。ところが日本の若者はしない。こんな国は珍しい、と彼女は非常に驚いていた。

 

──今も昔も日本の若者は諸外国と比較すると政治への関心、ましてや政治討論はあまり身近でないように思われます。『朝生』がスタートしてからは、大学生にとって政治討論が身近になったように当時を記憶しています。遡って、田原さんが学生だった時代というと……

 

あの頃は学生運動があったじゃない。

 

──「安保反対」ですね。政府に対して、学生が強く抵抗した。しかし一方で、「僕は安保運動に参加しながら、安保条約の中身を読んでいなかった」と著書で振り返っていらっしゃる。

 

うん、そう。安保の時、東大駒場のリーダーだったのが西部邁(1939-2018。保守派の評論家)。彼は警察に捕まって、七か月も拘置された。釈放された西部が後に言ったよ。「俺たちは馬鹿だったよね」

西部には借りがあるんだ。1990年代初めの頃の『朝まで生テレビ!(1987年に開始した討論番組、以下『朝生』。司会進行・田原総一朗氏)』は、論客は全て左翼だった。西部は右翼だ。「悪役だけど出てくれる」と頼んだら、喜んで出てくれた。

僕はキャスティングも考えていて、京都大学のの高坂正堯(1934-1996。国際政治学者)という教授をとても信頼していた。彼が亡くなって、ポスト高坂を探しだした。すると舛添要一という名前が出てきた。実際に会ってみて、彼に出演してもらいたいと思った。舛添のテレビ初登場は『朝生』なの。高坂教授とは全く違うキャラクターでしたけど、番組自体は面白くなったね。

 

 

 

 

──スター性のある論客、パワフルな人物がキャスティングされ、持論を闘わせていましたね。現代の論客とはタイプが異なるようにも見受けられます。

 

戦争を知っている世代がいなくなったのは大きい。僕が戦争を知っている最後の世代です。戦争を知っている世代は「戦争は絶対に駄目だ、太平洋戦争は間違った戦争で、ああいうことをしてはいけない」という想いを持っている。戦争を知らない世代にはあまりない感覚だよね。

僕は、小学校五年生の夏休みに玉音放送を聞いた。五年生にもなれば軍事教育が始まり、本格的な社会化を受けるという時期です。

一学期までは、教師が「この戦争は正義の戦争だ。侵略国であるアメリカやイギリス、フランス、アジアを植民地にしているそれらの国を打ち破ろう。アジアを独立させ、平和にするための正義の戦争だ。天皇陛下のために名誉の戦死をせよ」と僕らに説いていた。

ところが二学期、同じ教師が「あの戦争は間違った戦争でした。やってはいけないものでした。君たちはこれから平和のために頑張らなきゃいけない」と真逆のことを口にする。ほんの少し前までラジオや新聞に「英雄」だと絶賛されていた人々が、代表的なのが東条英機だね、次々と逮捕された。そして、逮捕されるのが当然だという空気が世の中に流れている。

『……一体何なんだ、マスコミって』この疑問が僕の原点です。どうも偉い大人の言うことは信用できない。マスコミも信用できない。国は国民を騙すんだ。

 

 

 

 

──終戦を境にして日本の方向性が180度変わり、その時代に生きている人の心は大きく揺さぶられた。

 

もうひとつ。終戦から数年が経ち、僕は中学生になっていた。中学の三年間でも「君たちは平和のために頑張れ。戦争は悪だ」と教えられた。そうして高校に入ってから、勃発したのが朝鮮戦争(1950勃発)だ。戦争はいけないと教えられていたから、「朝鮮戦争反対!」と僕らが言うと、「お前ら共産党か!?」と責められた。

戦後、共産党は占領軍と呼ばないの。解放軍と呼んだ。戦争が終わるまでは共産党は監獄だから、共産党と占領軍は非常に仲が良かった。野坂参三(1892-1993。政治家。日本共産党議長)とかね。ところが朝鮮戦争が始まると共産党はパージされた。またそこで日本が変わった。

こういったことがあって、権力や偉い人、マスコミは信頼できないという考えが強くなった。

 

──その不信感が、ジャーナリストになってからの正義に追求する姿勢に繋がっていくのですね。そして今でもその姿勢を持ち続けている。

 

戦争を知っている世代はみんな抱いているよ。戦争を体験しているか、していないかは大きい。だから、『朝生』で思い切ったことを言う人物は少なくなってきているね。

 

 

 

 

──大島渚さんや野坂昭如さんのような?

 

大島渚はね、「天皇は悪だ」と思い込んでいたから(笑)。今、「国家が悪だ」と思っている人っている?

僕には敗戦の体験がある。どうも権威というものを信用できない、正義ってやつも信頼できない。そしてある時に気づいた。正義を商売にしている連中がいる。それは誰か、……検察だ。

だから、検察に叩かれている人間を徹底的に取材してみようと思い立った。最初は田中角栄、ロッキード事件。それから江副浩正、リクルート事件。あの時もしも江副が検察にやられなかったら、リクルートは今頃、日本のGoogleになっていただろう。

堀江貴文、鈴木宗男、小沢一郎。みんな検察から叩かれた人間だ。そういった人間を取材してやろうといつも思う。

小沢一郎の一件でいうと、亀井静香という男がいたね。小沢と亀井が組んで民主党が力をつけ、自民党が十年ばかり政権を取れないようにしようとした。ところが小沢が検察にコテンパンにやられ、彼らの計画は失敗した。

 

 

 

 

──田原さんがキャッチした、あの背景に流れる事情とは?

 

小沢一郎がやろうとしたのは、官僚主導から政治主導への変化。これは現在でいうところの内閣人事局(国家公務員幹部職員の人事に関して一元管理を行う組織。内閣官房に置かれている)なんだけど、官僚たちは大反対した。検察も官僚だから、小沢を物凄く嫌うし潰そうとする。

それまで、小沢と亀井のタッグによって民主党は参議院選挙で勝利していた。しかし衆議院選挙を目前にして、小沢の秘書が逮捕されたでしょう。そして小沢は幹事長を辞任せざるを得なくなる。衆議院選挙では結果、民主党は勝ったけど、世の中全部「小沢が悪者」という認識だったね。マスコミも何もかも。

小沢一郎は面白い男だったよ。政策には関心がないみたいだけど、権力を掴むことには物凄く関心を持っている。自民党政権下で、非自民勢力が二回も権力を握ったのは小沢がやったのだ。彼にしかできなかったのから。

 

──政治に栄華必衰ありですか?

 

面白いよね。勝ったり負けたりね。

 

 

政治について語る時、田原さんの顔から笑みがこぼれる。どうやら「変化を面白がる」ことが田原さんのエネルギーの秘訣らしい。森鴎外から影響を受けた「ドロップ・イン」の生き方を貫く田原さん、時代の節目が近づくとジャーナリストの血が騒ぐようでした。

次回インタビューでは、日本を読み解くキーワード「空気」と、「討論の力」についてお話を伺います。

 

写真:田形千紘     文:鈴木舞

 

 

 

 

空気の国・日本に「討論」の力で風穴を開ける。田原総一朗氏、生き方を語る【第2回】

時代は変わる。「与えられる」から「見つける」へ。「守る」から「面白がる」へ。田原総一朗 氏生き方を語る【第3回】

 

編集・構成 MOC(モック)編集部
人生100年時代を生きる、
大人のためのマガジンMOC(モック)
Moment Of Choice-MOC.STYLE

 

PROFILE

田原 総一朗

1934年、滋賀県生まれ。
60年、早稲田大学卒業後、岩波映画製作所に入社。
64年、東京12チャンネル(現テレビ東京)に開局とともに入社。
77年にフリーに。
テレビ朝日系『朝まで生テレビ!』『サンデープロジェクト』で
テレビジャーナリズムの新しい地平を拓く。
98年、戦後の放送ジャーナリスト1人を選ぶ城戸又一賞を受賞。早稲田大学特命教授を歴任する(2017年3月まで)。
現在、「大隈塾」塾頭を務める。

『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日系)、『激論!クロスファイア』(BS朝日)の司会をはじめ、テレビ・ラジオの出演多数。
また、『日本の戦争』(小学館)、『塀の上を走れ 田原総一朗自伝』講談社)、『誰もが書かなかった日本の戦争』(ポプラ社)、『田原総一朗責任 編集 竹中先生、日本経済 次はどうなりますか?』(アスコム)など、多数の著書がある。

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