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西寺郷太の「ポップ・ステーション」其の八 1995-1999〜ノーナ・リーヴスを動かした街、下北沢(後編)

 

 

前回に引き続き、〈ノーナ・リーヴスの始発駅〉である小田急・下北沢駅周辺からお届けする、西寺郷太の「ポップ・ステーション」駅。今回は、新宿編、下北沢編とたびたび名前が出てきているSTARWAGON〜PENPALSにまつわるエピソードをふたたび交えつつ、メジャー・デビューしたばかりのノーナ・リーヴスと下北沢を回想します。時のペン先が綴る物語、ではさっそく。

 

 

──1996年になって奥田さんが加入、完全なバンド編成になったノーナ・リーヴスが、吉祥寺のインディーズ・レーベルUNDER FLOWER RECORDSから最初のアルバム『サイドカー』をリリースするのが、96年12月13日。

 

はい。13日の金曜日だったんで、よく覚えてます(笑)。

 

──2枚目のアルバム『QUICKLY』が8か月後の97年8月25日。

 

その、一週間後くらいにダイアナ元妃が事故で亡くなって、ニュースはそれ一色でした。というか、この頃はホント必死でしたね。人生で初めて期待してもらえて、契約の話とか、アルバムの話は進むんですけど、そんな矢継ぎ早に曲作ったことなんてなかったんで(笑)。

 

 

 

 

──で、その秋。ワーナーミュージックよりメジャー・デビューされますね(97年11月25日『GOLF ep.』リリース)。そう考えると、95年の春まではバンドが組めなくて悩んでたはずなのに、いかに下北沢に来てからのラスト・スパートがすごかったかってことがわかりますね(笑)。

 

そうなんですよ(笑)。新宿駅の回の連載で「24歳になってプロになってなかったら音楽辞めるから」みたいなことを1995年の4月に親父に宣言して、秋葉原でのバイトを辞めたって話があったんですけど。覚えてます?

 

──はい、覚えてますよ。チチローならぬチチ寺さんですよね(笑)。

 

僕、73年11月27日が誕生日なんで、ワーナーからメジャー・デビューしたのがギリギリ23歳でセーフだったんですよね(笑)。

 

──それ、すごいですよね。スパイ映画とかで仕掛けられた時限爆弾を爆発3秒前で止めた、みたいな(笑)。スリリングすぎます。

 

 

 

 

メジャー・デビューってちゃんと決まって、作品が出るまでに最低でも半年くらいかかるんですよ、その辺も実際経験するまで知らなくて(笑)。ま、もちろんその前に、インディーとはいえ、23歳の間に2枚もアルバム出して契約も交わしてたんで、96年の8月からは完全にプロになってたんですけど。メジャー・デビューした時、ひとつ年下の奥田は確か一年留年してたんで、まだ学生だったと思いますね。

 

──1995年がブリット・ポップ全盛でお祭り騒ぎだったことは前回も伺ったんですが、96年、97年の下北沢のバンド界隈は、どういうムードだったんですか?

 

オアシス対ブラーみたいな、ブリット・ポップの大ブームも、96年になると急速にしぼむというか。特にブラーはそうでしたけど、それまでの“躁”的なムードから“鬱”な感じに急に変化してゆくんですよね。東京でも、あれだけ男女が一緒になって「わーっ!」って楽しく騒いでた下北沢のバンド界隈も、いくつかのバンドがメジャーと契約するに従って、それぞれの極端な音楽性を伸ばす方向にシフトしていきました。学生のTVドラマ、例えば「ふぞろいの林檎たち」とかも、「II」とか続編になるとどんどん就職が迫ったりリアルな現実との間で世知辛くなってくるというか(笑)。

 

 

 

 

──そういえば、「ふぞろいの林檎たち」で柳沢慎吾の役名は西寺実でした。

 

柳沢慎吾さん(笑)。僕大好きで、あのドラマ。脱線すいません(笑)。ちょうど就職活動を同世代がしてる時期だったんで、ああいう感じが近いというか。下北沢のバンドマンの焦りって意味では、音楽性をガラッと変革させて大成功したサニーデイ・サービスの存在は大きかったですね。すでに彼らは、みんながブームに熱狂してる1995年4月の段階で、大胆にそれまでの“洋楽的”なイメージから舵を切ったアルバム『若者たち』をリリースしてて。その年の11月に、僕が新宿のタワーレコードで試聴して崩れ落ちた大傑作シングル「恋におちたら」をリリースしたんですけど、とんでもなくて、本当に。“ビートルズをラウドに”みたいな、イギリスの音楽を日本で激しくという視点ではなくて、日本の70年代の音楽を90年代に持ってくる、ブリット・ポップじゃなくて日本ポップといか、東京ポップというか。ポール・ウェラーやブラーがロンドンだったり英国の伝統を意識すること、それを真の意味で体現するとサニーデイみたいな道になっていくんでしょうけど。ともかく、正しいですね。

 

 

 

 

──ですね。すごく説得力があって、一時期は曽我部さんが雑誌やなんかで紹介するレコードすべて聴いておけ!みたいな風潮もあったように思います。

 

何よりも曽我部さんの声と言葉。シンガーとして群を抜いてたってのが大きいです。で、1996年2月に、あの歴史的名盤『東京』ですから。僕自身、曽我部さんはすごすぎて、正直、その頃はこの人に近づいてはいけない、と、避けてました。磁力に引き寄せられたら自分のアイデンティティーが狂う。そういう存在で。下北沢に集まってた他のバンドのフロントマンもみんな、いろいろ考えたと思います。

 

──たしかにムードが変わって、“サニーデイ・サービス以降”みたいな時間軸がありましたからね。

 

この連載で何度も名前を出してきた、僕の“兄”“師匠”的存在の湧井さんも、バンドのイメージを急激に変えたがってたひとりでした。湧井さんは、カントリーとか、フォークとか、70年代のシンガー・ソングライターもの、ちょっと“イナたい”泥臭いサウンドを、その頃希求してて。STARWAGONがインディーで英語で歌ってた時代は、みんな、ひとつになってて。95年の夏に出た『DISTORTIONS』ってアルバムは、びっくりするくらいの名盤で。僕も、歌詞カードのデザインとかさせてもらって(笑)。全編英語詞の単純に超かっこいいバンド・サウンドだったんですけど、メジャー・デビューが決まったタイミングから湧井さんの書く歌詞が日本語になってくると、なんか必然的にドメスティックな匂いが全体に漂うというか。「歌詞の日本語化」が、“洋楽的”って部分を支持されて英詞で歌っていた、多くの下北沢のバンドが続けてゆくために通る通過儀礼だったんですよね。

 

 

 

 

──そこで苦しんだバンドがいっぱいいて。で、実質的なリーダーでメイン・ソングライターだった湧井正則さんは、バンドの中での折り合いがつかずに辞めることになったんでしたっけ?

 

ですね。確か、96年の6月にポリスターから日本語詞になったミニ・アルバムをリリースしたんです。タイトルは『LA LA Ooh LA DAY』。ただ僕も、その頃は自分自身がノーナ・リーヴスに一生懸命で。STARWAGONの記憶がぼやけて来るんですけど……。で、湧井さんが脱退して、解散したのか、全員で解散を決めたのか、その辺の事情はよくわからないんですが、結局STARWAGONはなくなったんです。それで終わりかなと思ってたら、他の3人が、英詞でもう少し若い感覚のメロコア的なラウドな曲をやろうって。PENPALSって、当時RENTALSとかもいたんで、冗談みたいなネーミングやなぁ、って笑ってたんですけど、96年の夏かな、林くんがリード・ヴォーカルになって。そうしたら、信じられないほど大成功したっていう。大先輩である湧井さんの影に隠れてた林くんのキャッチーな声質、それに盤石の上条兄弟のギターとドラム、作曲やアレンジ含めて、まさにザ・ポリスみたいな感じで奇跡的に絡み合ったんですよね。

 

 

 

 

──ザ・ポリスみたいに、メンバー同士が超仲悪いってことはなかったですけど(笑)。

 

(笑)。STARWAGONは、双子の上条兄弟がドラムとギターでした。彼らもすごかったです。ふたりはその時点ですでに女性ヴォーカル&ベースの3人組、Loco-Holidaysのメンバーとしてバンドで一度デビューしてて。その活動を終えて彼らが始めたSTARWAGONは、2つ目のバンドだったんですよね。当時、湧井さんと上条兄弟は、3人で一軒家を借りて共同生活してて。バンドの車が、敷地に停めてあって……みたいなすべてに憧れました。湧井さんが脱けた後のPENPALSに関して言えば、特に初期は大好きでしたね。3人の共作名義の「I WANNA KNOW」って曲は、下北沢で出会ったバンドのすべての曲の中で一番好き、というか……。林くんはある種の同年代のライバルでしたから、こんなすごい曲作れて歌えるのか、とホント嫉妬した曲でした。ともかくヴォーカルの色気と気迫がすごくて。

 

──ノーナ・リーヴスとPENPALSって音楽的にはなかなか繋がりを見つけにくいですけど、郷太さんには縁の深いバンドなんですね。それこそ、郷太さんも林宗應さんも同じお寺の息子っていう。

 

そうなんですよ(笑)。あくまでも僕の中でですけど、三大バンドマンお寺の息子は、僕と林くんと、深沼元昭さんです(笑)。で、林くんの実家っていうのは井の頭公園の横にある大盛寺という寺で、むちゃくちゃでっかいんですよ。夜になると寺が灯りに照らされて「たけし城」みたいに見える(笑)。超一等地の天台宗のお寺で、ウチとはまったく比べものにならない(笑)。深沼さんのお寺もデカいですけどね。で、96年の夏かなぁ、林くんの実家でバーベキューをやった夜のことをよく思い出しますね。もう、どこぞのレコード会社から声がかかってるみたいなバンドマン連中も結構集まってて、歳も僕と同じぐらい。カノジョとかも連れてきてて、楽しそうにバーベキューやってたんですが。それはなんか、ひとつの時代の終わりって感じもしたというか。でも今にして思えばホンマに、人それぞれの人生があってね、あの時はあの時で紛れもない青春というか。ホント、僕も95年の4月から96年の夏ぐらいまで毎日のように下北沢にいて、レコード出すって決まるまでは、毎日のように飲みに行ってて。ふざけて。Twitterとかない時代だったけど、いや、それ以前に携帯がなかったんですよ(笑)。だから、下北沢に行ったら誰かがおる、何軒かライブハウスや店を回ろう、みたいなね。もちろん大スターの曽我部さんとかにもしょっちゅう出くわしてて、「こんちわー」とかいう感じだったから。

 

 

 

 

──さっきも、ここ来るときに歩いてるの見ましたよ。

 

(笑)。曽我部さんと、最新アルバムの『MISSION』ではじめて共作できたんですが本当に嬉しかったですね。ノーナ・リーヴスの20周年のイベントにも出ていただいて。その時、サニーデイ・サービスでだったので、もちろんベースの田中貴さん、それからサポートでN.G.THREEの新井仁さんも参加してもらって。先輩たちに「郷太は自分の道を切り開いて、ここまで続けて、よく頑張った、すごいなー」って褒めてもらえて。泣きそうになりますよね、20年以上前に出会ったわけで。

 

──いやあ、あの日は素敵なライヴでした。ところで、湧井さんってノーナ・リーヴスのプロデュースも一時期されてませんでしたか?

 

ワーナーでのセカンド・アルバム『フライデー・ナイト』の頃ですね。1999年。湧井さん、STARWAGONを辞めたあとはソロで活動しようと燃えてたんですよね、バードマンって名前つけて。サンプラーでリズム組んで、ベースももちろん上手いし、ギターも重ねて、楽曲を作ってたみたいなんですけど、結局、煮詰まったんでしょうかね、あんまり続いた印象はなかったですね。

 

──ひとりだと、「これでOK」っていうジャッジラインが決めにくいってこと聞きますけど、湧井さんもそうだったんですかね?

 

きっとそういうことだったと思いますね。完璧主義になりすぎるというか。SPOOCHYって、僕がプロデュースした3人組の女の子の楽曲も一曲お任せしたんですけど、それも、湧井さん、かなり悩まれて、メロディーと歌詞かなり変えて、女の子たちが一回録音したけど、結局全部録り直したたこともあって。どっちもいいんですけどね。そうこうしてるうちに、一方のPENPALSは、えっ?っていうくらいブレイクしてたし、プライドの高い人でしたから複雑ですよね。で、その頃、1999年になって、メジャー・セカンド・アルバム『フライデー・ナイト』の先行シングルになった「ストップ・ミー」から、奥田や小松と相談して湧井さんにプロデュースしてほしいって声をかけたんですね。

 

 

 

 

──郷太の恩返し、という。

 

(笑)。単純に僕らもメジャーに行って、いろんな壁にぶち当たって。プロデューサーをつけるなら、僕らをよく理解してくれている湧井さんだろうと。湧井さんと作った『フライデー・ナイト』は、自分のキャリアの中でも指折りに好きなアルバムですし、まさに、下北沢出身のバンドが“英詞”のおしゃれ感から、自分たちのオリジナリティー、濃さっていうのにシフトした、そのタイミングの記念碑的な作品なんですよね。この前、スタイル・カウンシルとか、ブロウ・モンキーズとか、当時のロック・ファン、音楽ファンに受け入れられやすいファンク、ソウル、ブルーアイド・ソウル感を一旦目指した、っていう話したんですが……。

 

──そうでしたね。

 

この『フライデー・ナイト』で、ワム!、マイケル・ジャクソン、ニュー・エディション、ホール&オーツとか、ポップな80年代ソウルの解釈。多分、今のブルーノ・マーズとかに通じる、90年代には否定されてたインテリ側じゃない80’sポップ、ファンク感みたいなものを、ノーナ・リーヴスの色に出来たのが大きいんですよね。ほんと、誰もそういうバンドいなくて。「なんか、ちゃらいし、80年代ぽくてダサいな」と一部からは思われてたとは思うんですけど、僕らは「これが好きなんだよ」って。「郷太は、自信持ってそこ進め!」って湧井さんが後押しくれたことは、大きかったですね。で、そんな『フライデー・ナイト』が99年の12月に出て、ほどなくして筒美京平さんとの制作を始めるんですけど。

 

──「LOVE TOGETHER」ですね!

 

そうです。筒美京平さんのプロデュースということで、湧井さんはレコーディングに加わってないんですけど。メジャー・サード・アルバムの『ディスティニー』の頃は、「二十歳の夏」で共同プロデュースしてもらったくらいで、ちょっと会わなくなってたのかな。「DJ! DJ!」って曲を秋にリリースして、2000年の大晦日に渋谷のクラブ・クアトロであった年越しイヴェントに出た時に湧井さんが観に来てくれて、ライヴが終わったあとに話しかけてくれたんです。で、何を言うかな思ったら「郷太、おまえはオレを越えた。オレからお前に伝えることはもうない」みたいなことを言って。で、信じられないような話だと思うけど、今にして思えば湧井さんと、まともにしゃべったのそれが最後なんですよね。その日から彼、一度も僕の目の前に現れなくなったんですよ。

 

 

 

 

──信じられないというか、ドラマの世界みたいですね。

 

いやホント。もちろん、会おうと思えば会えるんでしょうけど、めっちゃカッコつけの人だって知ってるんで。一回、そのあとソロのバードマン名義でようやくライヴをするみたいな話で、恐る恐る観に行った記憶があるんですが、めっちゃ髪の毛腰くらいまで伸びてて、キリストみたいなんですよ(笑)。顔もそもそも細長くて、背も180超えてて大きい人なんで、まじでキリストかい!と思ったことを、こうやって話してたら思い出してきました(笑)。ま、あれだけ世話になった人で、なおかつ、自分の流儀がある人なんで、こちらから会いに行くのもどうかなあって考えてたら、18年経っちゃいましたね。もしかしたら、これ読んで「おまえ、話を盛るなよ。悪いところだぞ」とかって来てくれるかもしれませんけど(笑)。だったら嬉しいですね。そんな湧井さんとの濃い繋がりのストーリーは、95年の初めからほぼ5年で終わったことになるんですよね。それはすなわち、僕にとっての下北沢時代の終わりでもあって。もちろんそれからも、生活圏が世田谷なんで来ることもあるんですが、下北沢に関する独特の感慨はあえてなくしましたね。卒業した学校みたいな。一時の想い出が強すぎるんですよ。

 

というわけで〈下北沢編〉はこれにて完結。次回も引き続き下北沢のロケではありますが、話題のほうは「LOVE TOGETHER」「DJ! DJ! 〜とどかぬ想い〜」の2曲で共同制作された大先生、筒美京平さんとのエピソードを中心にお届けします! 

 

 

写真:杉江拓哉( TRON)   取材・文:久保田 泰平

 

 

 

 

 

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編集・構成 MOC(モック)編集部
人生100年時代を生きる、
大人のためのマガジンMOC(モック)
Moment Of Choice-MOC.STYLE

 

PROFILE

西寺 郷太

1973年東京生まれ京都育ち。早稲田大学在学時に結成したバンド『NONA REEVES』のシンガーであり、多くの楽曲で作詞・作曲も担当している。音楽プロデューサー、作詞・作曲家としては少年隊やSMAP、V6、KAT-TUN、岡村靖幸、中島美嘉などの多くの作品に携わる。また、ソロ・アーティスト、堂島孝平・藤井隆とのユニット「Smalll Boys」としても並行して活動。そして、日本屈指の音楽研究家としても知られ、特にマイケル・ジャクソンをはじめとする80年代の洋楽に詳しく、これまでに数多くのライナーノーツを手がけ、近年では80年代音楽の伝承者として執筆した書籍の数々がベストセラーに。代表作に小説「噂のメロディー・メイカー」(扶桑社)、「プリンス論」(新潮新書)など。テレビ・ラジオ出演、雑誌の連載などでも精力的に活動し、現在WOWOWのインターネット番組「ぷらすと」にレギュラー出演中。

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