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恋のあとさき ~隆史の場合【1】〜

 

 

~隆史の場合【1】〜

人はどうして不倫という名の恋に落ちるのか、そしてその恋はどういう展開をたどるのか。女性たちの気持ちは、そして男性たちの心は……。実話をベースにした不倫小説をお送りします。

 

 

飯村隆史は、リビングのソファに深く座りながら、ひっきりなしに貧乏揺すりをしていた。次男の孝太が大学を辞めたいと言っていると妻の由美子から聞いたからだ。

「あなた、そんなにイライラしないで」

「これがイライラしないでいられるか。せっかく浪人して入った大学を、どうしてやめようというんだ」

「孝太が帰ってきたら聞いてみてよ。朝、出がけに大学辞めたいって言って、そのまま行ってしまったから詳しいことはわからないのよ」

今日はペンディングになっていた商談がうまくいき、隆史は会社でほっとしたばかりだ。もうじき部長の椅子も待っている。そんなときにどうして、こんな話で気持ちを乱されないといけないんだ……。

そういえば、もうひとつイライラさせられることもあったのだ。半年前から密かにつきあっている部下の亜希子から「1泊旅行をしたい」とせがまれているのだった。隆史は亜希子に夢中だった。結婚以来、浮気などしたこともなかった隆史なのに、二回り年下、27歳の亜希子にはめろめろになった。すでに家を出ている隆史の長男が25歳だから、子どもといってもいいような年齢の女性に、どうしてこれほど心をもっていかれたのか、隆史自身もわかっていない。

「ただいまあ」

のんびりした声で孝太が帰ってきた。

「あ、おとうさん、帰ってたんだ」

リビングへ顔を出した孝太は、母親の由美子に箱を差し出す。

「おかあさん、誕生日おめでとう」

隆史の顔がひくっとひきつった。

「あらあ、孝太は覚えていてくれたのね」

孝太は、の「は」に力が入る。夫は覚えてくれていないと言外に匂わせるのが由美子のやり方である。

「バイト代が入ったから、ケーキ、奮発したよ」

開けてみて由美子が「わあ」と声を上げる。

「あなた、見て。こんなに果物がいっぱい。おいしそう。孝太、夕飯は? まだでしょ」

「あ、今日はバイト先で食べてきた」

「じゃあ、このケーキをいただきましょう」

「手を洗ってくるね」

「おい」

洗面所へ行きかけた孝太に、隆史が声をかける。

「なに?」

「おまえ、大学を辞めたいって本気か?」

「ああ、その話ね」

孝太はリビングのソファに座り込む。

「オレ、学問が向いてないような気がするんだ。早く働いたほうがいいかな、と」

「向く向かないより、現実問題として就職するときに困るんじゃないか」

「まあね。今のバイト先、居酒屋なんだけどさ、働くなら正社員にしてくれるっていうんだ。いっそさっさと働き始めたほうがいいような気がして」

「一生、居酒屋で雇われ続けるのか」

「居酒屋のどこが悪いんだよ」

「悪いとは言ってない。若いうちはいいけど、ずっと居酒屋で働けるわけでもないだろう。本部に行くということになれば、やはり大学くらいは出ていないと……」

「出世はできないよね。おとうさんにとっては出世が大事なんだろうけど」

隆史がムッとしたような顔をし、雰囲気が険悪になる。

「ねえ、とりあえずケーキを食べましょうよ。孝太ももうちょっと先輩や友だちに意見を聞いたらどう? せっかく入ったのに辞めるのはもったいないと思うわ、私は」

「それはそうだけどね」

孝太は決してムキにはならない。出世しなければ男じゃないと言いたげな父親には、皮肉めいたことを言うが、母親には乱暴な口をきいたことがなかった。

「結婚したい人がいるんだ」

孝太がケーキを食べながら、「明日天気がいいかなあ」というのと同じような口調で言った。隆史も由美子も一瞬、聞き流しになるほどさりげない発言だった。

間があいたあと、「なにそれ」と由美子がつぶやく。

「結婚したいんだよ。だから働こうかと」

「学生の分際でなんだ」

隆史がいきりたつ。

「だから働くんだよ」

孝太はあくまでも冷静だ。

 

「私だって、本当はあなたと結婚したいんだからね」

亜希子は昨夜、隆史に甘えながらそう言った。

「いや、それは……」

隆史がうろたえると、亜希子はうふふと低く笑う。

「結婚してなんて言わないわよ。ただ、そういう気持ちがあるくらい好きだってこと」

どうして亜希子がこれほど自分を愛してくれるのかわからない。隆史はそもそも、女性にそれほど愛情をぶつけられたことがなかった。妻の由美子とは、親戚からの紹介で会った。見合いのようなものだ。結婚後、ごくまれに浮気はしたが、自分がむしゃくしゃしたときにバーで顔なじみの女性と一夜を過ごしたりした程度だ。女に溺れたら、仕事で失敗すると思い込んで生きてきた。

だが、亜希子だけは隆史のそんな心のバリアをするりと抜けて入ってきた。息子しかいない隆史に、娘のかわいらしさを教えてくれ、さらに若い女の残酷さも味わわされているような気がする。会うたびに魅力が増すのだ、亜希子という女性は。

 

そんなことをふっと思っていたので、妻が「ねえ、あなた」と言ったとき、隆史は何も聞いていなかった。

「え?」

「いやだ、ちゃんと聞いてよ。結婚は大学を卒業してからでも遅くないって言ってるの」

「そ、そうだ、そりゃそうだ」

孝太がちらりと隆史を見る。

「学生は学問が本分だからな」

「おとうさんはいつもそうやって、原理原則しか言わないんだね」

「なにを!」

「怒っても始まらないわよ」

由美子が冷静にとりなした。

「相手はどういう人なの? もう結婚しようと決めているの? どうしてそんな急ぐの?」

立て続けに聞かれて、孝太がうんざりしたような顔をする。

「まあ、すべてはこれからだから。今のところは学業に励むから、おとうさん、安心して。近い将来、結婚ということになるかもしれない。そのとき急に言うと心の準備ができないでしょ。だからそういうこともあり得ると思っていてくれれば……。じゃあ、おやすみなさい。おかあさん、誕生日おめでとう」

孝太はさっと立ち上がってリビングを出ていった。

残されたベテラン夫婦の間に、気まずい空気が流れる。

「誕生日だったんだな……」

「いいわよ、おとうさんに祝ってもらったことなんて今までだってないんだから」

由美子は淡々と言いながら、ケーキを口に運んでいた。

 

20歳の息子が結婚したいと思うのは、どうしてなのか。隆史はリビングにひとり残って、そればかり考えている。自分が結婚したのは27歳だったか28歳だったか。社会的に一人前になるには家庭をもったほうがいいという意識が、まだ一般的なころだった。

ソファに置いた携帯がぷるぷると震える。

<隆史さん、何してるの? 亜希子はちょっと酔ってる>

亜希子はときどき、こうして夜、メッセージを送ってくる。

<どこで飲んでるんだ>

<どこで、じゃなくて誰と、でしょー。元カレと飲んでるよ>

隆史の胸がぐきっと痛む。

<うっそー。家でひとりで飲んでる。さみしい>

この切り替えの早さに、隆史は翻弄される。本当は元カレとやらと飲んでいるのではないかと疑惑が強まっていく。亜希子が他の男とふたりきりで飲んでいるところを想像するだけで息苦しくなってくるのだ。

<明日、会おう>

<ほんと? うれしい>

<場所は明日連絡するから>

<了解!>

最後はかわいい絵文字を送ってくる。隆史も絵文字を返した。絵文字の存在を教えてくれたのも亜希子だ。

隆史の脳裏に、ベッドでの亜希子が浮かぶ。押すと跳ね返してくる白い肌、そして知り合ったころに比べて格段に感じるようになった体。どんどん新しい快感のステージをのぼっていく亜希子を、隆史は少し怖いと思いながらも眺めている。

「どうしよう、こんなに感じたら……。あなたから離れられない」

亜希子は数日前、そう言って泣いた。かわいくて、でもせつなくて、隆史まで泣きそうになったものだった。亜希子につらい思いだけはさせたくない。隆史は携帯を握りしめる。その様子をドアの陰から、妻の由美子がじっと見つめていることも知らずに。

(つづく)

 

 

イラスト:アイバカヨ

 

 

 

 

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編集・構成 MOC(モック)編集部
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PROFILE
亀山 早苗

亀山 早苗

1960年東京生まれ。明治大学文学部卒業。フリーライターとして、女性の生き方を中心に恋愛、結婚、性の問題に取り組む。『不倫の恋で苦しむ男たち』『夫の不倫で苦しむ妻たち』『不倫の恋の決断』『妻と恋人』『渇望』『オンナを降りない女たち、オトコを降りるオトコたち』など、不倫や婚外恋愛に関する著書多数。『渇いた夜』、『愛より甘く、せつなく』などの小説作品やノンフィクション作品も手がける。

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