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自立と孤立、依存と共存 中村うさぎ連載コラム 〜第34回〜

 

 

〜連載第34回〜

自立を目指して生きてきたら、いつの間にか孤立していた。

依存症に苦しんでたら、共存という新たな道が見えてきた。

これは、そんな私の半生の話です。

 

 

人間が互いに繋がり合いたいと願う気持ちは、よくわかる。

私の中にも、そういう気持ちは強くあると思う。

人はひとりでは生きていけないよう調教された生き物だからだ。

そもそも「社会」というものが、そういう理念で作られている。

ゆえに、人と人とが繋がろうとすることを否定する気はまったくないのだが、声高に叫ばれる「絆」や「連帯」には非常に懐疑的である。

 

だって、それ、すごく危険だと思うのよ。

人間が一致団結する一番安易な方法は「同じ敵を作ること」だからね。

 

愛よりも憎しみの方が強い絆を生む。

人類の歴史を見れば、一目瞭然だ。

民族が心をひとつにして一致団結するのは戦争の時だけ。

社会運動や思想や宗教などの団体も、「仮想敵」を作ることで人心をひとつにまとめ上げる。

特定の敵を共有しない平和な境遇では、人々の心はすぐにバラバラになり、他者とはぐれてひとりさまようことになる。

今の我々が、まさにその状態ではないか。

 

ネットで特定の個人に狙いを定めて叩きまくる者たちも、有名人を槍玉にあげて鬼の首を取ったように正義漢面して糾弾するマスコミも、平和な社会に倦んだ人々が「仮想敵」を作っては徒党を組んで悪者叩きに興じる野卑な「疑似戦争」行為に見える。

こんな大人たちが子どもたちに向かって「イジメはいけません」なんて、どの面下げて言えるのか。

 

人間は敵を共有することでしか強い絆を保てない、本質的に「ヘイト」を好む生き物なのである。

では、我々は「愛」で繋がることはできないのか?

「家族」は? 「友情」は?

確かに、そういう感情で繋がりを持つこともできる。

だが、それは憎しみによる繋がりに比べると、はるかに緩いものだ。

何かの危機が生じれば発動するが、普段はそれぞれがよそを向いて勝手なことをしている。

だが、この「勝手なこと」を許す気持ちが重要なのだ。

 

憎しみによる団結は、個々の勝手な行動を許さない。

それどころか、敵に寝返る裏切り者がいないか、厳しく目を光らせる。

少しでも反論する者がいると、異分子として排除されたり粛清されたりする。

それは息苦しい同調圧力であり、「個」を消していく全体主義だ。

 

一方、「愛」による絆は、「個」を尊重しようとする。

相手を束縛したり支配しようとする「恋」は、私に言わせれば「愛」ではない。

それは相手という他者への愛ではなく、自分を満足させるためのナルシシズムだからだ。

相手の幸福を心から願うのであれば、相手の「個」を尊重するのは当然ではないか。

誰だって自分の「個」が尊重されないのは嫌でしょう?

自分がされて嫌なことを相手に強要するのは「愛」ではない、ただのエゴだ。

 

したがって、相手の「個」を尊重する「愛」を基盤とした関係は、しばしば双方が好き勝手な方向を向いているバラバラな関係に見える。

2人が同じ方向を向いて同じ経験を分かち合い、同じ価値観を共有するのが「愛」だと思っている人々にとっては、彼らはまったく「愛し合ってない」ように見えるだろう。

だが、それは違う。

たしかに「共有」は「連帯」と「一体感」を生み強い絆を作るため、それが「愛」のあるべき形と考えるのはよくわかる。

が、じつのところ「愛」の本質は他者の「個」の尊重であり、「個」を埋没させる方向とは真逆のベクトルだと私は考えるからである。

 

「家族」も「友人」も、それぞれが別々の方向を向いてていいのだ。

別の方向を見ていても、視野の隅には常に相手がいる……それくらいの距離感が最適なのではないか。

いつもいつも一緒にいる必要など全然ない。

けれど、相手に何かあったら、すぐに駆けつける。

何故なら、相手を大事に思っているからだ。

大事に思っているから、干渉もしないし相手の自由を尊重する。

そして、大事に思っているから、相手が困った時には駆けつけて救おうとする。

それが「愛」だと私は考えている。

 

以前、そのことで友人と意見が割れたことがある。

彼は大の世話好きで社交的で、しょっちゅう友人の誕生日会を企画しては。みんなを呼び寄せていた。

最初は少人数だったのでべつによかったのだが、徐々に人数が膨大になっていき、それほど親しくない友人の誕生日会にまで呼ばれるようになったうえに、誕生日会の回数も頻繁になってきたため、私はだんだん負担になってきて、ついにある日、「今後、誕生日会には一切出席しないし、私の誕生日会も不要である」と彼に宣言した。

彼は「お友達の大切な日を一緒に祝ってあげるのが友情」だと思っていたのだろうし、その考えを全否定する気もないのだが、私は誕生日の喜びを共有することよりも、その人が本当につらい時や困った時に手を差し伸べることの方が大事だと思っていたのだ。

以来、私は彼らとそう頻繁に会わなくなったが、彼らの誰かが困っていると聞けば必ず会いに行く、というスタンスを保っている。

私にとっては、それが快適な距離なのだ。

それ以上の距離は、「誕生日会には万難を排して出席すべし」といった同調圧力が自然に生じたり、「誰々のプレゼントはいくらだったから、この人のプレゼントも同じくらいじゃないと悪いかな?でもそんなに親しくないんだけどなぁ」などというどうでもいいことに頭を悩ませる羽目になって、せっかくの友情が負担になってくる。

正直、私の誕生日なんか誰も祝ってくれなくていいしな(笑)。

私自身も毎年忘れているくらいだ。

 

誕生日に限らず、あらゆる記念日に、私も夫も無関心だ。

「結婚記念日」なんか祝ったこともないし、そもそも何月何日なのか覚えてない。

誕生日や結婚記念日に夫が他の人とデートしてても、私は何も思わないだろう。

それは、夫を愛していないからではない。

そんなものをわざわざ共有して確認しなくても、私たちは紛れもなくパートナーであり家族である、という自負があるからだ。

記念日を共有することで互いの愛を確認せずにはいられないのは、私の目には一種の「強迫観念」に映るのだ。

アメリカ人が職場に家族の写真を飾ったりするのも、なんだか不安による強迫行動ではないかと勘繰ってしまいたくなる。

「愛」が「強迫」になったら、その関係性は終わりではないのだろうか?

(つづく)

 

イラスト:トシダナルホ

 

 

 

 

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編集・構成 MOC(モック)編集部
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PROFILE

中村 うさぎ

1958年生まれ。エッセイスト。福岡県出身。
同志社大学文学部英文学科卒業。
1991年ライトノベルでデビュー。
以降エッセイストとして、買い物依存症やホストクラブ通い、整形美容、デリヘル勤務などの体験を書く。

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