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西寺郷太の「ポップ・ステーション」其の八 下北沢(番外編)〜筒美京平との出会い〜

 

 

前回の下北沢編後編では、下北沢でめきめきと頭角を現していったノーナ・リーヴスが、やがて下北沢を〈卒業〉するまでのエピソード語ってくれた西寺駅長。下北沢との別れとクロスフェードする形で、メジャーでのキャリアをスタートさせたノーナ・リーヴスでしたが、別れがあれば出会いあり……ということで、この時期には西寺駅長の音楽観に大きな影響を与えた出会いがありました。その人の名は、日本を代表するヒットメイカーである作曲家・筒美京平。2000年に「LOVE TOGETHER」「DJ! DJ! 〜とどかぬ想い〜」でコラボレーションを果たした……そもそもの事の始まりから駅長に訊いてみましょう!

 

 

──ノーナ・リーヴスが初期の段階で筒美京平先生とコラボレーションしていたっていうのは、グループの歴史上でも大きなトピックだったかと思いますが、そもそもどういうきっかけだったんですか?

 

京平さんとの出会いはシンプルで……。ワーナー時代のディレクター、渡辺忠孝さんのお兄さんだったんですね。ノーナが下北沢でお客さんを集め始め、インディのファースト『サイドカー』を出した頃、いろんなメジャー・レーベルの方が観に来て声をかけてくれたんですが、熱心に契約まで考えて誘ってくれたのがビクターのスピードスターと、ワーナーミュージックのディレクター渡辺さんで。で、それぞれのレコード会社にも行ってみたりして。スタッフと食事をしたり。スピードスターのプランは、ノーナには百戦錬磨のプロデューサーをちゃんとつけて、歌詞を書く僕も全部日本語でやるべきだっていう主張があって。それは今、振り返って考えるとめちゃくちゃ正しいんですけど。その後、スピードスターからデビューした、くるりなんかはまさにそのやり方でしたよね。

 

 

 

 

──そういえば「くるり」は確かに佐久間正英さんがプロデューサーについて、しっかり日本語の旨味を伝えるバンドとして成功していきましたね。

 

でも、当時の僕、僕だけじゃなく奥田も小松も、プロデューサーはいらないし、英語でやりたいときは英語でやるし、好きにやらせてくれみたいな感じだったんですよ。ちょっと下北インディーの小さな栄光にカブれすぎていたんです(笑)。騙されないぞ、飲み込まれてたまるか、みたいな若さゆえのヘンなノリ、自分らしさの頑なな守り方というか。それもまた今、振り返れば必要なんですけどね。大人のアドバイスを聞きすぎて迷走や分裂してなくなったバンドや、ミュージシャンは多いですから。

 

──信念を持たないわがままだったらあれですが、自分らしさを守るために「ノー」と言えることも大事ですよね。

 

必死だったんで。そんな当時の僕らの考え方を認めてくれたのがワーナーミュージックの渡辺さんでした。それよりもなによりもワーナーは、プリンスもいるしマドンナもいるし、ヴァン・ヘイレンとかドナルド・フェイゲン『ナイトフライ』も、っていう自分からしたらスーパーに憧れていたレーベルだったんですよね。プリンスはワーナーと当時喧嘩してレーベルを離れてた時代ですけど、それにしても自分にとってあのロゴやイメージはプリンスのもので。

 

 

 

 

──そういえばその昔、忌野清志郎さんがRCサクセションでロンドン・レコードと契約した理由というのも、ローリング・ストーンズのカタログを持っていたから、という話を聞いたことあります。

 

洋楽好きだったらそういうのありますよね(笑)。ミーハー心というか、その歴史に自分が入るとなったら、やっぱり日本のレーベルよりも、海外のレーベルに行きたい!ってなるんですよね。なんだろう、今、サッカーにハマってるんですけど、メッシが好きで育った少年なら、いろんなチームから誘われても当然バルサのユニフォーム着たい!って思うのと同じ感じかな、と。プリンス好きの僕は、飛び上がるほど嬉しかったんです。渡辺忠孝さんはその頃、50代ぐらいだったと思うんですけど、すごく気の良い人で、僕のことを「可愛いなー」ってめっちゃ褒めるんですよ(笑)。「生意気なところもサイコー!」みたいな感じで(笑)。で、お兄さんと組んだC-C-Bとか、その後フィッシュマンズを担当されてたんですね。僕ら、当時ご多分にもれずフィッシュマンズが好きでよくライヴを観せてもらってました。勉強しな、みたいな感じで。渡辺さんはワーナーに来るまでポリドールにいたんです。で、ワーナーに移る手土産じゃないですけど、新人バンドを探してたんですね。若い頃アメリカでも暮らされていた渡辺さんはポップスの生き字引みたいな人で、本当に詳しくて。興味があったんで、ある時「特に好きな音楽は何なんですか?」って訊いてみたら、「僕はね、ヒット曲が好き」って言うんです。当時のノーナのレパートリーには、「モーターマン」っていう曲とか「ナンバーナイン・オブ・マイライフ」って曲とか、モータウン調のキャッチーな曲も多かったので、そういうのも気に入ってもらえてたんですよね。

 

 

 

 

──そこでまあ、京平先生とも繋がるわけですね。

 

なんですけど、インディーズでのファースト『サイドカー』が結構売れて、その印税を当時のメンバー5人で分けて。僕、初めて音楽で手に入れた収入でアコギ買ったんですよ、ギブソンのJ-50っていう、今も使ってるギターを。そしたらまあ、うれしくてアコギばっか弾くようになって(笑)。書く曲もだんだんアコースティックなものに偏っていっちゃったんですよ。ワーナーからは、グルーヴィーでノリノリのダンス・ナンバーみたいなのを求められていたんですけど、なんか、そういう気分じゃなかったんですよね。ビートルズの「アンソロジー」シリーズっていう未発表音源集が出てた頃で、ああいう中途半端な出来上がりの状態というか、ベックとかのいわゆるローファイなムードにもハマッていたから、作り込みすぎてないラフなものの良さみたいなのを好んで聴いていた時期でもあって。でっかいスタジオ入っても、当時の日本の芸能界的な綺麗な音だったり、プロっぽい音が嘘くさく感じちゃって。会社の人からしたらノリノリでキャッチーで元気な曲が上がって来るだろうって、それこそのちの「LOVE TOGETHER」みたいなサウンドが期待されてたんだろうと思うんです。でも、僕らが用意したファースト・シングルは「フォーティーパイ」(『GOLF ep.』の1曲目)。めっちゃ地味やないか!なんだこれ?みたいな感じで(笑)。

 

 

 

 

──まあ、イイ曲ですけどね。

 

ありがとうございます(笑)。タイムレスというか、最初から懐かしい感じの曲なんで、不思議に今も色褪せないんですけど。メンバーも初めてのプロ生活でスタジオ入って、飯食ったり、あはは、なんて楽しく曲作りやってたんですけど、ワーナーに入って1年半ぐらい経った頃、明らかに社内で僕らに対する当初の期待が消えて行ったんです。1997年11月にデビューして、1998年は『WARNER MUSIC EP』を出したのみ。なぜか『I HEARD THE SOUND EP』っていうシングルを、またインディーに戻ってリリースしたりして。正直、見捨てられたんですよね(笑)。こいつらやる気まったくないがなって。せっかくキャッチーな曲を作るっていう期待感でワーナーと契約できたのに、僕らのあとから次々と新人も出てきてたし、制作や宣伝の予算もだんだん減らされてくみたいになって、これはヤバイヤバイと(笑)。それで、ようやく火がついて。最初は1999年夏の日本語化したシングル「バッド・ガール」。今に至るAOR、アーバン・ファンク路線の曲です。その次に、ここは元気な曲をなんとしてでも作らなきゃって思ってできたのが「ストップ・ミー」なんです。

 

 

 

 

──たしかにこの曲はシフトアップした感じがありますね。

 

「ストップ・ミー」をリリースした後、ディレクターの渡辺さんから、お兄さんの筒美京平さんもこの曲を褒めてる、と聞かされたんですよ。えっ、ホントにあの京平さんが褒めてくれたん?って喜んだんですけど。少年隊の「君だけに」「ABC」とか、もちろんそれだけじゃないですけど、〈ザ・ベストテン歌謡〉で育った僕にとって京平さんは「神」のような存在でしたから。で、渡辺さんがいうには、京平さんが「ストップ・ミー」を聴き終わって「曲を書いて歌ってる子、この子には欲がないね」って仰ったそうなんです。「欲がない?……ってどういうことですか?」と渡辺さんに訊いたら、「売れるっていうことを、まったく考えてない」って(笑)。それまでの曲ならまだしも、僕としては「ストップ・ミー」に関しては超売れたい!って思って作ってたんですけど……(笑)。「なぜ売れないか」という理由として、京平さんは「この曲は全部のパートのメロディーが良すぎる」って言ったそうなんです。出だしから最後までメロディーが良すぎるっていうことは、実はいちばんイイ部分、推しの部分がぼやけるからダメなんだって。音楽としてはべつにダメなことじゃないけど、まず売れるという意味で言えば「サビ」がクッキリ浮き上がらないとダメなんだって。僕としてはスタートから終わりまで全編記憶に残るような曲、それを良かれと思って作ったんですけどね。

 

──でも当時、「ストップ・ミー」はデイリーヤマザキのTV-CMに使われていたんですよね。

 

そうなんです。ただ、僕は《ストップ・ミー! 爆撃する ストップ・ミー ぼくを止めて!》っていうところがサビだと思って作ってたんですけど、CMでは出だしの《Never give it up! Never give it up!君がいて 笑ってる 写真に撮っていれば 写真に撮っていれば》っていうところが使われたんですよ。あー、ここが使われるんだと。その後《君のスマーイル!》っていう大サビもあるんですけど、そこの可能性もあったなぁ、と。その時、京平さんが言ってくださったのってこういうことか!って気づいたんです。かなり、衝撃でしたね。それで、渡辺さんに「申し訳ないですけど、次、京平さんにプロデュースしてもらえませんか」と。「今度は、あとからアドバイスをいただくんじゃなくて、作ってる途中でアドバイスもらえませんか」って言って。京平さんは作曲家で、プロデュースのような仕事は、本当に珍しかったみたいなんですが、引き受けて下さったんです。弟さんの頼み、ということも大きかったでしょうから渡辺さんには感謝してます。

 

 

 

 

──それで「LOVE TOGETHER」の制作に入るわけですね。

 

制作は、京平さんのマンションに何度か通って、僕が素を作った曲を京平さんが、そうじゃないなあ、そこはいいですね、ここはこうやったほうがいいんじゃないかな、ってアドバイスしてくださって。メンバーとのやりとりも積み重ねて出来上がったのが「LOVE TOGETHER」でした。やっぱりノーナといえば、この曲が好きっていう人はいまだに多いですね。ストリングスやホーンのアレンジは山本拓夫さんにお願いして、ほんとこの曲のおかげで久々にワーナーも「ノーナ行けー!!!」みたいな体制になって。何年か前に、「プロデューサーいらないです! 大きなスタジオでやりたくない! 日本語嫌です!」みたいなこと言ってたのを全部覆してるんですけど(笑)。ただこの時は、僕もそうだし、メンバーもそうだし、それまで自分たちが気持ちよくて自分たちの考えでやってただけだったから、そこまで外の人、天才的な作曲家に強い意見を言ってもらった経験がなかったんですよね。だから、制作中はある種の葛藤もあったのも事実です。

 

──3枚目のアルバム『ディスティニー』を作る前に、YOU THE ROCK★さんとやった「DJ! DJ! 〜とどかぬ想い〜」をシングルで出して、それも筒美京平さんのプロデュースですね。

 

「DJ! DJ!」の時にいちばん焦ったのが、スタジオに来たユウさん(YOU THE ROCK★)が京平さんにノリノリで「京平さん、子供の頃から大ファンです!」って挨拶して、そのあと何言うかと思ったら「京平さんの作詞、最高です!」って(笑)。ちょっと待ってや、京平さん作詞家ちゃうんやけどって(笑)。松本隆さんか誰かと勘違いしてたんだと思うんです(笑)。僕はめちゃくちゃ面白くて。無茶苦茶やん!と(笑)。スタジオの空気が一瞬止まったんですけど、京平さんは大笑いしてくださって。

 

──やらかしたわけですね(笑)。

 

事なきを得ましたけど(笑)。それでまあ、「LOVE TOGETHER」の時のことで鮮明に憶えているのが、京平さんはミックスの時にも確認でスタジオに来てくれたんですけど、その直前、レコーディングの終盤にね、「僕、ちょっとイタリアに靴を買いに行きます」って突然2週間くらいいなくなったんですよ。「えーっ、プロデューサーがイタリアに靴買いに行って不在って、そんなことあるんかい!?」って思ったんですけど(笑)。帰って来られてから「LOVE TOGETHER」のミックスを聴いて、僕は京平さんの隣で聴いてたんですけど、聴き終わったあとに「ようやく商品ができましたね」って僕に向かって言ったんですよ。その言葉が僕のなかでめっちゃうれしくて。

 

 

 

 

──あっ、その意味わかります。

 

それが例えば、下北沢でやってた数年前とかに、偉い人とかレコード会社の人とか、それが京平さんであろうと、同じことを言われたら「いやいや、俺の音楽は商品じゃないんですよ」みたいな、「心を込めた芸術なんだ」みたいなニュアンスで言い返していたと思うんですよね。でも、2年ぐらいメジャーでやって、やっぱり人に届けてなんぼやなって思えるようになったんです。学生の時の延長みたいなのもピュアでいいんですけど、そうじゃなくてプロの音楽家としてやっていかなあかんなぁ、って思ったときに、京平さんに半年ぐらい師事できたわけです。さまざまな形で教えてもらって。イタリアに行かれたのも「大丈夫だね。ここからはバンドでやりなさい」ってことだった気もするんです。その結果、「商品ができましたね」って言ってもらえたことは、僕の音楽人生で忘れられない一瞬になりましたね。でも、結局、今、若い人と接したり、プロデュースすることもあるんですが、先輩から押し付けられたことって身につかないなぁと思うし、自分で失敗したり、選ばないとダメだなぁと思うんで、気持ちはよくわかりますね。特にバンドの場合は足並みを合わせることが難しいでしょう? ノーナは、奥田と小松といろんなトライやミスを同時に体験できたから、強いなぁ、って思ってます。まったく効率はよくないですけどね(笑)。

 

──流れで少し話が飛びましたけど、90年代後半の下北沢で、渡辺忠孝さんと出会ってワーナーと契約したことが、次の展開や出会いに繋がったというわけですね。

 

ですね。プロになって最初の5年、1997年から2001年は、当時ワーナーがあった北青山、駅で言えば〈外苑前〉が僕らのホームになりました。次回からは、その頃の話でも、しますかね(笑)。

 

 

ということで次回の下車は、東京メトロ銀座線・外苑前駅。ノーナ・リーヴスがメジャー・デビューしたレーベル、ワーナーミュージックがかつて居を構えていた場所、北青山で、当時のエピソードをたっぷりと語っていただきます! to be continued…

 

写真:杉江拓哉( TRON)   取材・文:久保田 泰平

 

 

 

 

西寺郷太の「ポップ・ステーション」新宿駅 90s〜西寺郷太のカレッジ・デイズ(前編)

西寺郷太の「ポップ・ステーション」新宿駅 90s〜西寺郷太のカレッジ・デイズ(中編)

西寺郷太の「ポップ・ステーション」新宿駅 90s〜西寺郷太のカレッジ・デイズ(後編)

西寺郷太の「ポップ・ステーション」駅:其の七 プリンス

西寺郷太の「ポップ・ステーション」駅:其の八 1995-1999〜ノーナ・リーヴスを動かした街、下北沢

西寺郷太の「ポップ・ステーション」駅:其の八 1995-1999〜ノーナ・リーヴスを動かした街、下北沢(中編)

西寺郷太の「ポップ・ステーション」其の八 1995-1999〜ノーナ・リーヴスを動かした街、下北沢(後編)

 

 

編集・構成 MOC(モック)編集部
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PROFILE

西寺 郷太

1973年東京生まれ京都育ち。早稲田大学在学時に結成したバンド『NONA REEVES』のシンガーであり、多くの楽曲で作詞・作曲も担当している。音楽プロデューサー、作詞・作曲家としては少年隊やSMAP、V6、KAT-TUN、岡村靖幸、中島美嘉などの多くの作品に携わる。また、ソロ・アーティスト、堂島孝平・藤井隆とのユニット「Smalll Boys」としても並行して活動。そして、日本屈指の音楽研究家としても知られ、特にマイケル・ジャクソンをはじめとする80年代の洋楽に詳しく、これまでに数多くのライナーノーツを手がけ、近年では80年代音楽の伝承者として執筆した書籍の数々がベストセラーに。代表作に小説「噂のメロディー・メイカー」(扶桑社)、「プリンス論」(新潮新書)など。テレビ・ラジオ出演、雑誌の連載などでも精力的に活動し、現在WOWOWのインターネット番組「ぷらすと」にレギュラー出演中。

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