人生100年時代を楽しむ、大人の生き方 Magazine

内田樹氏インタビュー【第3回】 “公共”とは、生命力あふれる共同体。人生100年時代のこれからも作り続けていくべきもの。

 

 

ますますの国際化と情報社会化が予想される人生100年時代において、知性は個人が持てる大きな武器です。しかし知性はどこまで他人と共有できるのか。このことは今後のよりよい社会を構築するうえでの重要な鍵となりそうです。個人主義、インフラ整備、研究開発力など、これからの日本を論じるうえで欠かせない事柄について、内田樹氏のご意見を伺ってきました。

 

 

──「俺の金をあげたくない」というのは個人主義からくる考えでしょうか?

 

個人主義というほど上等なものではないです。ただ単に世の中の仕組みを知らないということです。主義でも意見でもなく、単なる無知です。 でも、その「世のなかの仕組みを知らない無知な人間」たちが偉くなり、発言力を持っている。 私権・私財を少しだけ公共に譲ることではじめて近代市民社会は成立した。そういう考え方を説いたのがジョン・ロックでありトマス・ホッブズであり、それが近代市民社会論の基本なんです。いささか理念的ではありますけれど、「私権の制限」「私利私欲の追及の抑制」とによって、初めて公共が立ち上がるという原理に市民社会は制度設計されている。それを否定してしまうと、中世に戻るしかない。

 

 

 

 

──自分にとって心地いい理論を他人にまで当てはめて展開してしまう人はいますね。

 

誰でも必ず年老いるし、怪我もするし、病気にもなるし、障碍者にもなるし、失業することもある。そういうリスクは必ずあるんです。そのときに困窮しないように公共が存在するんです。そして、公共が適切に機能しない時は、それに代わるものを人々は作り出す。 1950年代の東京は行政サービスがまだ不十分でしたらから、公共を担っていたのは「町内」でした。地域共同体が活発に生きていた。防犯も防災も公衆衛生も自分たちでやっていた。それは行政サービスが不十分だったからです。役所に電話一本すれば駆けつけてくれるという時代じゃなかった。火事を起こさないためには自分たちで夜回りをして防災努力をするしかなかった。泥棒に入られないためには町内で防犯体制を構築するしかなかった。日本脳炎を防ぐためには、日曜日に近所が総出でドブさらいをするしかなかった。自分たちで守らないと、生活が立ち行かなかったからです。そういう意味で、町内は「目に見える公共」でした。 でも、60年代に入り、東京オリンピックのころから、日本がだんだん豊かになって、行政が整備されくると、町内という公共が消滅した。地域共同体の中に貧富の差が出てきたんです。共同体の内部で格差が生まれると、共同体は崩れてしまう。豊かになった家はまず塀を建てる。家の中が覗かれないようにするんです。それまでは生垣越しに互いの家に出入りしていたのが、プライバシーを隠すようになった。テレビや冷蔵庫や洗濯機を買ったりしたせいで隣人の嫉妬を買うことを恐れたのです。いずれ全員がそこそこ豊かになってはゆくのですが、時間差がある。その時に早く豊かになった人たちから順に地域共同体から「降りる」ようになった。そうやってほんとうに短期間に町内の連帯は失われた。60年代に小学校から中学にかけてのことですけれど、目の前でみるみるうちに地域共同体が崩壊してゆくさまを僕は砂かぶりで見ていました。 共同体というのは必要があれば成立するし、必要がなくなると崩壊する。そういう歴史的な条件で消長するものなんです。

 

 

 

 

──日本社会一億総中流という時代がありましたね。

 

だから日本の高度経済成長があり得たんです。国民のほとんどが自分のことを「中産階級」だと思っていて、階層格差がないというのが国が一番活力のある状態なんです。格差ができて、富が少数の超富裕層に集中すると内需は一気に冷え込む。消費活動というのは最終的には「消費者の頭数」で決まるんです。今世界の超富裕層上位8人の個人資産の総額が、下位35億人の資産と同額というところまで二極化が進んでいますけれど、8人の消費活動なんか知れてますからね。いくら自家用ジェットを日替わりで乗るような蕩尽的な消費をしても、35億人が「中産階級」気分で日々消費するのとは桁が違う。だから格差が拡大すれば消費活動が冷え込むのは当たり前なんです。経済成長というようなことをまだ本気で信じているなら、エコノミストは「どうやって超富裕層に蓄積された富を適切に再分配して、中産階級を再構築するか」を論じるべきなんですけれど、そんなことを言っている人はほとんどいないですね。さらに二極化が進んで、市場が縮む方向に棹さしていながら「経済成長」なんて寝言を言っている。 水野和夫さん(日本の経済学者、エコノミスト)が言われていたけれど、簡単なんですよ。社会全体にお金が行き渡るようにすればいいんですよ。企業が内部留保を吐き出して、株主への配当を取りやめて、減価償却分だけ残して、残りは全部賃金で払えばいいんです。そうすれば一気に日本の経済は跳ね上がる。投機目的の株主なんか要らないんです。その企業が提供している商品やサービスが安定的に供給されることを願っている人が株を買えばいい。株主であることの利益は、その企業が順調に操業して、自分が必要とする財やサービスが安定的に手に入るという事実として得られているんですから、それ以上に配当なんか望む必要はない。「株主優待券」を配るくらいのことでいいんです。

 

──内部留保アメリカによる格付けに端を欲しますね。そのレギュレーションに従って日本の会社は内部留保しているような。

 

何のための内部留保なんでしょうか。研究開発費に使うとかプランがあるならともかく、ただブタ積みしているだけでしょう。日本の経済がこれだけ低調したのは企業が賃金を払わずに、無意味に内部留保しているせいですよ。お金というのは貯めるものじゃなくて、使うものなんです。世界の富が少数の超富裕層の個人口座に積み上げられても、そんなことには何の意味もないんです。貨幣の本質は運動なんだから。退蔵されたらお金は死ぬんです。 ベーシックインカムもお金を流通させるひとつの手立てだと思います。実際にやってみれば効果はあると思います。政府は財源がないというけれど、みんながお金を使えば、経済が回る。内需が活性化すれば、企業の収益だって増えるし、税収だって増える。問題は公共に対する信認だけなんです。国家を信じない国民ばかりだったら、ベーシックインカムを配っても、みんな将来に備えてそれを貯め込んでしまって消費に回らない。それは国民が「ケチ」だからじゃなくて、年金制度や健康保険制度を空洞化して、国民が将来に対して不安を持つようにしてしまった国の失政の帰結なんです。よく言われますけれど、経済を動かしているのは「気分」なんですよ。一番大切なのは公共に対する信認なんです。それに尽くされる。  

 

 

 

 

──ホールディングスという経営形態は、投資売買を積極的に行いますね。

 

金融経済というのは幻想を売り買いしているだけですから、早晩行き詰まります。ソニーも保険とかに手を出してから、本業がダメになったでしょう。JAもそうです。農協が保険や金融で儲けようとしている。それよりは日本の農業をどうやって支えるか、それを現場で考えるべきでしょう。

 

──日本の大手企業の開発力低下したのでしょうか。

 

開発力というのはどれだけイノベーティヴな才能を育てられるかで決まります。でも、今の日本の企業にはイノベーターを育てる環境がない。学校教育は積極的にイノベーティヴな子どもを潰す仕組みですし、企業もイエスマンしか採らない。だったら、企業が開発力なんか持てるはずがない。 日本企業のモノづくりへの国際的評価もあきらかに下がっています。新しいモノをつくりだす能力が落ちている。だって、冒険心を持つことを学校でも企業でも制度的に禁じられているんですから。 画期的な研究や発見というのは、「こちらに進めば何かありそうな気がする」という直観に頼って進んだ結果出て来るものなんです。何が出て来るか、事前には予測できないし、成果についてのエビデンスベーストの事業計画書も書けない。でも、直感を信じることを止めたら、もう何も創造的なことはできません。 先進国のなかで日本だけが自然科学の論文数が減っているのは、ほんとうに危機的なことなんです。日本企業が持っている特許だって、ほとんどは大学発なんです。その大学がイノベーションの力がなくなった。これが続いたら、単に大学の学術的発信力が衰退するというにとどまらず、日本の企業の開発力もなくなるということです。

 

──大学教育がイノベーションの力を取り戻すためには?

 

政権交代ですかね、とりあえずは。もう少し長い目でものを見られる賢い人が政権中枢にいないと話にならない。魚も腐るときは頭から腐ると言います。トップが変わらないと始まらないです。 民主党政権のことを人はずいぶんあしざまに罵りますけれど、僕はその理由がさっぱり分からない。民主党政権の時は僕や高橋源一郎さんのところにも、文科省が意見を聞きに来ていたんですからね。鳩山総理とも一緒に食事をしたし、国会議員たちのセミナーにも何度も講師として呼ばれました。僕個人としては、自分の意見が政権中枢に届くなんてことが生きている間に起こるなんて思ったこともなかったから、「あら、いい時代になったなあ」と思っていましたよ。なにしろ総理のスピーチライターを平田オリザさんがしていたくらいですからね。あのまま日本はずいぶんいい方向に向かうと思っていたんですけど…。 普天間基地問題であっという間に風向きが変わってしまった。あれは外務省の陰謀なんです。外務省が普天間基地の県外移設は不可能だということを総理に伝えたんです。海兵隊のレギュレーションがあって、訓練場と基地の間の距離が決まっている、と。どう計算しても、そのレギュレーションを守る限りは基地を沖縄から出すわけにはゆかないということだった。外務省にその書類を突き付けられて、鳩山さんは普天間の県外移転を断念した。 ご承知の通り、それを「食言をした」「県民への裏切りだ」と言って、日本中のメディアが叩いた。鳩山さんは責任を取って辞任した。でも、後になって米軍は「そんなレギュレーションは存在しない」と言い出した。海兵隊の規則に従えば普天間の県外移転は不可能だと鳩山さんに伝えた外務省の役人はすでに退職していたし、彼が持参したはずの文書は「存在が確認できない」で話は終わってしまいました。 鳩山政権を倒すというのは、「対米従属」クラスターにとっては必須の政治課題だったのです。だから、どんな汚い手を使っても引きずりおろす気でいた。でも、あの政権交代の影響は大きかったと思います。その後の第二次安倍政権で、日本の全システムは一気に劣化しましたから。それで利益を得ているのは官製相場で株をやっている連中と、官邸の周辺にいる「身内」だけですよ。

 

 

 

 

──少子高齢化は加速しています。保育園待機児童や独居老人の孤独死など、共同体では簡単に解決できない問題もあるのでは?

 

解決できることとできないことがあるのは当然です。でも、僕たちとしては自分にできる限りのことをするしかない。そのためには、どれほど小さくても公共の場を立ち上げることです。公共の場というのは公共に頼んで作ってもらうものではなくて、私人が身銭を切って、自力で作るものです。近代市民社会というのは「私権・私利を抑制する」ところから始まると言いましたけれど、そこからしか始まらないんです。公共というのは、あらかじめそこに「ある」ものじゃなくて、これから「作る」ものだからです。まずプライベートな空間をパブリックなものとして開放するというところから始める。そこからしか始まらないのじゃないかと僕は思っています。 僕は自宅を道場として公開しています。それはプライバシーというある程度放棄する覚悟がないとできない。僕の知らないうちに、いろいろな人が入ってきて、道場を使って、また帰ってゆく。そのすべてを僕が管理できるはずがない。私的な家を公共空間に提供するということは、けっこう大変なんです。提供するサイドはいろいろなものを断念しないといけない。家の中だからと言って、パンツ一丁で暮らすわけにはゆかないんです(笑)。 でも、道場というのは、誰かがそこに住んでいないとダメなんです。お寺と同じで、誰かがそこにいて生活していないと、いけない。住職がいるお寺と無住の寺の違いは外から見てもはっきりわかります。汚れているとか、傷んでいるということだけではなく、人が住んでいないと、建物が死んでしまう。それは公共的な空間でも同じで、そこに生身の人間が暮らしていないと、「つや」が出ないんです。セキュリティとか衛生管理の問題だけではないんです。そこに生身の人間がいて、そこで生活しているのでなければ、空間は生きて来ない。公立の体育館の武道場は閉館時間になると鍵を閉めて管理人が帰ってしまう。誰もいなくなる。その間に道場は生命力を失って、ただの「箱」に戻ってしまう。オフィスビルでもそう。昼間どれほど人がいても、そこで生活している人がいないと、ただの無機的な箱なんです。

 

──昔の公民館とも違うのでしょうか。

 

公民館だって、そこに人が定住していればいいんです。昔の学校には用務員さんがいて、そこで暮らしていましたね。小さい部屋があって、煮炊きできる設備があって、布団を敷いて暮らしていた。そういう人が一人いるだけで、何かあったときに学校に「逃げ込む」いう選択肢が頭に浮かぶでしょう。サスペンス映画では、悪い奴に追われてオフィスビルとか学校の校舎とかにうっかり逃げ込んだら、「もはやこれまで」でしょう。一番危ない場所なんです。広くて、無人だから。 お寺はそういう意味で公共的なものの一つの基盤になりうると思いますよ。日本中にお寺は無数にありますから、できればそういう空間を公共の基盤として活用していきたいですね。実際に、お寺を地域のコミュニティの拠点にしたいという宗教者はたくさんいますよ。お寺とか神社とかは、地域に開かれるチャンスがあると思います。

 

 

 

 

──“穏やかな共同体”を作るには、「私権制限私利私欲の追及の抑制」が必要そうですね。しかし、人間の欲は際限がありません。

 

いや、そうでもないですよ。実体経済を動かしているのは生身の人間の生理的欲求ですから。衣食住の欲求をどう満たすか、それが実体経済です。だから、実体経済には「身体という限界」がある。どれほど贅沢しようと、一日に食べられる量には限界があるし、一日に着られる服にも限界があるし、一日に暮らせる家にも限界がある。一日三食を越して食べると身体を壊すし、一時間ごとに上から下まで着替えて暮らすわけにもゆかないし、一晩に寝られる家は一軒だけです。衣食住はどれほど贅沢しても、上限がある。 だから、社会が成熟して、基本的な衣食住の欲求が満たされると、当然のことながら経済成長は停滞する。それが当然なんです。無限の成長というのは成熟した社会ではもうありえない。 でも、株式会社という仕組みは経済の右肩上がりを前提として作らているシステムなので、成長しないと困るわけです。「成長か死か」なんです。だから、人間の身体という限界がある実体経済を超えようとする。そのためには経済活動の軸足を人間の身体とは関係ないところに移すということです。生理的な欲求とは全然関係ないところで物の売り買いをする。要するに「金で金を買う」ということです。何も産み出さない。ただの博打です。それを途方もないスケールで行っている。それが金融経済です。実体経済は人間の身体を基盤とする活動ですけれど、金融経済はもう人間とは関係がない。実際に株の売り買いをしているのは人間ではなくて、コンピュータのアルゴリズムですから。1000分の1秒単位での株の売り買いなんか、人間にはできません。

 

──金融経済と人間の欲望には強い関連性がある?

 

もちろん、欲望に駆動されて「金で金を買う」ような経済活動をしているのは、ある意味できわめて「人間的」なふるまいではあります。でも、それは人間の「脳」には関係があっても、「身体」とはもう関係がない。幻想です。 本来、経済活動はそれにコミットする人間の市民的成熟を支援するための制度なわけですから、人間的成熟に資することのないものは語の厳密な意味では「経済活動」とは呼ばれない。 仮想通貨の取引のようなものは50年間続けても人間的な成長に何一つ資することがない。せいぜい「人間はどれほど欲深く、どれほど愚鈍か」を知るくらいのことで、そんなことは教えてもらえなくても誰だって知ってます。

 

 

 

 

──デリバティブやヘッジファンドが出てきてから、仮想空間が大きくなっていますね。

 

実体経済が成熟社会で行き詰まりになったので、幻想で経済を回すことになった。金融経済なんかは玄人同士でやっていたら渋くてどうにもならない。一攫千金を夢見る素人が小銭を握りしめてやってきてはじめて賭場が立つ。だから、金融経済の要諦はどうやって「小銭を持った素人に一攫千金の夢を見せるか」にかかってくる。この世の価値あるものを創り出しているのは、額に汗して働いている素人衆であって、賭場に巣食っている玄人は実は何も創造していない。でも、その玄人たちが素人の何万倍もの収益を得る。それが金融経済という仕組みです。 だから、「懐手をしていても金が儲かる」という話をどれだけ素人に信じ込ませるかという点に金融経済の「すべて」がかかっている。その話を誰も信じなくなった瞬間に幻想的な金融経済は終わります。メディアを使って「あなたもぼろ儲けできますよ」と必死に客寄せをしなければ成り立たないのです。 もちろん、博打が好きで好きでたまらないというギャンブル依存症の人もいます。そういう人たちは「ぼろ儲け」する夢よりも、「ここで負けると全財産がなくなる」という時のヒリヒリ感にアディクトしているわけで、それはもう止めようがない。でも、ギャンブル依存症は病気なんです。そういう人たちを食い物にして賭場が回っている。だから、僕はカジノには反対です。「額に汗して働くより、博打で一攫千金」という発想はほとんどの場合人を不幸にするし、ギャンブル依存症の人に依存の機会を増やすことは間違いなく彼らをますます不幸にする。他人の不幸を餌にして収益を上げるような仕組みを僕は好みません。

 

 

 

 

──ギャンブルで経済が活性化するという構図は、本当に経済効果が期待できるんでしょうか。社会に還元されるのか……。

 

最終的には経営者が吸い上げゆくだけでしょう。大勢の貧乏人から吸い上げて、少数の金持ちの懐を肥やすだけです。何度も言っていますけれど、少数の富裕者と大多数の貧困者を作り出すことが最も経済的には非効率なんです。1万人のツーリストが10万円のお小遣いを握りしめて三日間ハワイに行くのと、アラブの石油王がハワイの五つ星ホテルを借り切って三日で10億円使うのと、どちらが地元への経済波及効果が大きいか、考えればわかります。蕩尽的な消費はそれが蕩尽的であればあるほどそれにかかわる人の数が減る。

 

──仮想空間には、どこにも生身の人間がいないですもんね。

 

社会制度は「生身の人間」がどうすれば気分よく生きていけるかということだけを目的に設計されるべきなんです。ホモサピエンスが発祥して数十万年経ちますけれど、金融経済なんていう概念は何十年前にやっと登場したものです。そんな新参の制度を基準にして人間の生活を律すべきではありません。人間は共同的に暮らして、相互扶助する生物です。どういう仕組みを作れば、人間が共同的に気分よく、尊厳をもって暮らしていけるか。それについて考える。それ以外のことは、すべてどうでもいいことです。

 

 

次世代を思うとき、“どうやって、どんな人間を育てていくか”は必ず議論になる。そして、“どこで人を育てるか”もまた、転換期に入っている。お金が人を育てるのではない。生身の人間が生身の人間を育てるのだ。だからこそ、“穏やかな共同体”を手作りしよう。それが人間と社会の成長に繋がっていくのだから。 内田先生、社会の在り方を提示するお話しをありがとうございました。

 

 

写真:澤尾康博 文:鈴木舞

 

 

 

 

内田樹氏インタビュー【第1回】 今、潰されようとしている日本のイノベーション力。人生100年時代の大学教育の在り方を問う。

内田樹氏インタビュー【第2回】 “反知性主義”に陥る前に。人生100年時代の今こそ、資本主義と民主主義を問い直したい。

 

 

編集・構成 MOC(モック)編集部
人生100年時代を楽しむ、
大人の生き方マガジンMOC(モック)
Moment Of Choice-MOC.STYLE

 

PROFILE

内田 樹

1950(昭和25)年、東京生れ。神戸女学院大学名誉教授。武道家、合気道凱風館師範。東京大学文学部仏文科卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。専門はフランス現代思想、武道論、教育論、映画論など。主著に『ためらいの倫理学』『レヴィナスと愛の現象学』『ぼくの住まい論』『日本の身体』『街場の戦争論』ほか多数。『私家版・ユダヤ文化論』で小林秀雄賞、『日本辺境論』で新書大賞受賞、著作活動全般に対して伊丹十三賞受賞。神戸市で武道と哲学のための学塾「凱風館」主宰。

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