人生100年時代を楽しむ、大人の生き方 Magazine

西寺郷太の「ポップ・ステーション」其の十 ノーナ・リーヴスが通った街、外苑前。ワーナーミュージック・イヤーズ(後編)

 

 

97年、ノーナ・リーヴスがメジャーでのスタートを切ったレーベル=ワーナーミュージックがかつてオフィスを構えていた港区北青山。その最寄り駅である東京メトロ銀座線外苑前駅周辺からお届けしてきた西寺郷太の「ポップ・ステーション」駅〈外苑前編〉。今回はその完結編ということで、前編・中編で語りきれなかった思い出話を存分に語っていただきました。

 

 

──当初の予定では、97年11月にワーナーミュージックから“アルバム”でメジャー・デビュー。結局、メジャーでのファースト・アルバムは99年2月まで待つことになるわけですが。そこに入ってる「WARNER MUSIC」のビデオは、ワーナーの外苑前オフィスとその周辺で撮ったものでしたね。イントロで3人が階段を降りてくる外苑前のベルコモンズはもうないですが。

 

ですよね。完全に工事現場になってて「あぁ」と感慨もありますね。ベルコモンズの中の喫茶店で打ち合わせとかもよくしましたから。「WARNER MUSIC」のビデオには、当時のワーナーの恒川社長や、スタッフがたくさん出演してくださって、今思えば貴重な記録になってますね。この時期は僕自身がMV監督として、絵コンテやストーリーまで考え、編集までしてました。ともかく、せっかくメジャーに来たのに“自分の力で”“自分たちの力で”みたいなことにこだわり過ぎてたというか。そう言えば「WARNER MUSIC」リリースから、ちょうど今年で20周年らしいです(笑)。

 

 

 

 

──それはもう、景色も変わるはずですよね。近年はオリンピックの影響で加速化してるところもありますけど。あっ、でも、オフィスの裏手にある公団住宅と公園は変わらずありますね。

 

最後に3人で銃の打ち合いする“くじらの公園”は、ワーナー本社横の道徒歩1分の場所で、「オリーブ」とか雑誌の写真撮影をよくしました。あの時は黒と白のカラーリングでしたが、久々に行ったら青になってたり。当時、若かったスタッフのみなさんも、それぞれ別の会社に移られたり、ワーナーにいらっしゃる方もいますし。いい想い出ですね。受付嬢や社長秘書役は、当時僕がプロデュースしていたSPOOCHY(スプーチー)の3人が出てくれています。吉田豪さんは「西寺郷太の作ってきた音楽で一番好きなのはSPOOCHYのアルバムです!」ってずっと言ってくれてて。

 

──吉田豪さんだけでなく、SPOOCHYのアルバムを名盤と呼ぶ人、結構います。

 

二度と作れない魔法みたいなものはありますね。自分にとっても初めてのプロデュース作品でしたし。モラトリアムの終わりの切なさと言いますか。彼女たちにはノーナのコーラスもたくさんしてもらいました。インディー時代から初期ワーナーの、ある種のノーナ・リーヴスの“香り”みたいな鍵を握ってた存在ですね。最年少のミッちゃんは二十歳になるかならないかで、僕も含めてみんな若かったなぁ、と。今、サブスクリプションで聴けますから、ぜひ確かめてほしいです。で、98年のノーナは、メジャー・ファースト・アルバム『アニメーション』のレコーディングに邁進してたわけですけど、そこには下北沢時代にやってたような超高速ギター・ポップ「セスナ」もあれば、マーヴィン・ゲイに影響を受けた「ピーナッツ」っていう曲があったり。ストリングスやブラスも生演奏でどんどん入ってもらったり、冨田恵一さんにプロデュースを頼んだり、僕らも予算や規模が大きくなって楽しくチャレンジ出来たんですよね。ただ、その雑食性ゆえにコイツら何がやりたいんだ?っていう印象を持たれてしまったりもして。あと、多重録音で作り上げた世界を、少人数で演奏しなきゃいけないライヴで再現できなかったんですね。ライブバンドとして、新たな解釈でアレンジが出来るようになったのはしばらくしてからで。

 

 

 

 

──コーラスに真城めぐみさんが参加されたり、冨田”YT”謙さんがキーボードに参加された1999年あたりからということですかね……。

 

本当におふたりには感謝しかないですね。ただ、『アニメーション』で、ようやく自分たちのアマチュア時代が完全に終わらせられたのは大きいです。最後の「トーキング・アウェイ」って曲は、まさにその象徴ですね。ノーナはそこでギター・ロック、下北沢時代に追求してたカラーを捨てたんですよね。僕の歴史年表を作るとすれば、メジャー・デビュー・アルバム『アニメーション』までが紀元前(笑)。次に出したシングル「バッド・ガール」が紀元ゼロで、そこからが今のノーナ・リーヴス。そう、この頃にストリングスやなんやのアレンジをしてもらってたのが山本拓夫さんていうサックス・プレイヤーで……。

 

──渡辺美里や佐野元春のバンドでプレイしてた人ですよね。プレイヤーとしては超一流でしたけれど、アレンジャーとしてはまだそこまで名前が売れていた人ではなかったと記憶してます。

 

ディレクターの渡辺さんが呼んでくれて。拓夫さんは当時30代後半だったと思うんですけど。自分の音楽人生20数年間のなかで登場した一番の天才を選べっていうクイズがあったとしたら、間違いなくバーン!とテーブルを叩いて「山本拓夫!」って答えるだろうってぐらい、本当にすごい人で……。ノーナでホーンやストリングスのアレンジや演奏を頼んだ曲は、「バッド・ガール」「アナザー・サマー」、「パーティは何処に?」とか「LOVE TOGETHER」「二十歳の夏」「ディスティニー」「重ねた唇」……いろいろありますね。去年出した『MISSION』では、ひさびさにメジャーに戻ったっていうことで拓夫さんを呼んで、「NOVEMBER」と「Glory Sunset」の2曲を手掛けてもらってるんですけど。ともかく拓夫さんにやってもらった曲はことごとく僕らの代表曲になってて。

 

 

 

 

──見事に、ですね。

 

まあ、ホーンやストリングスは制作費がかかるんで、それだけお金をかけられるバックアップ体制っていうのもあるんですけど(笑)。それで言うと、思い出すのが、僕と同い年の盟友、corin.さんとで共同プロデュースしたV6の「kEEP oN.」(2012年)で、ストリングスやホーンを拓夫さんにお願いした時のことですね。音楽的にイニシアチヴを握っていた三宅健くんやスタッフの方から「今度の曲はとんでもない曲にしたいんだ」みたいなことを最初のミーティングで言われたんですね。バンドの部分もあれば打ち込みの部分もあってブラスもストリングスも入って、ジャンルも場面ごとに飛ぶ「なんだこれ!?」って曲にしたいって言うから、「それ、めっちゃお金かかりますよ! いくらぐらいの予算で考えてますか?」って会議室で訊いてみたんです(笑)。そうしたらエイベックスのV6チームが「いくらでもいい。いくらでも出していいからイイもの作ってほしい」っていうことだったので「マジですか!」と(笑)。その時点で拓夫さんに、ストリングスとホーンのアレンジと演奏を頼もうと思って連絡したんです。
もうね、拓夫さんは僕にとってそういう存在です。ただ、拓夫さんが仰るには「LOVE TOGETHER」の時代に僕らの仕事を通じて、筒美京平さんからアドバイスを受けたりしたことが、後々本当に勉強になったと。

 

 

 

 

──ディレクターの先見の明というか、ノーナ・リーヴスが『アニメーション』を作ってる頃はまだ頼みやすかった。

 

そう、渡辺さんは人を見る目があったんでしょうね。そういえば、ワーナーで最初に出した『GOLF ep.』では萩田光雄さんがストリングス・アレンジをやってくださってて。萩田さんが70年代から活躍されてる伝説的アレンジャーであるとか、もちろん、そのこと自体はわかっていたつもりだったんですが、当時の僕はエラそうに自分で間奏のストリングスのメロディーラインとか歌って「このラインが頭の中で鳴ってまして」ってイメージを一生懸命伝えたんですけど、今思えば全部任せてやってもらえば良かったなって思います(笑)。振り返れば、そういうこと多いですね(笑)。で、拓夫さんの話なんですが、「バッド・ガール」の時、共同プロデュースっていう形で入ってもらったんですが、この時、AORっていうか、ファンク、なおかつメロディーはポップなんだけど日本語でっていう現在に繋がるノーナの路線が出来上がりました。シティー・ファンクと言いますか。

 

──「バッド・ガール」が出たのは99年の夏でしたよね。当時、これに近い手触りの音楽って、女性シンガーであれば古内東子さん、具島直子さんあたりの名前が挙がるんですけど、もうちょっと柔らかいイメージですよね。男性だと、スーパーバタードッグは少しニュアンスが違うし、近年のシティー・ポップ・リバイバルを受けて、“早すぎた……”と言われたりもしたAhh! Folly Jet『Abandoned Songs From The Limbo』が出たのは2000年の初め頃。キリンジのプロデュースをしていた冨田恵一さんもそのへんの手の内をまだ出していなかったと思います。

 

で、アンニュイなタイプがボズ・スキャッグスとか、マイケルの「ロック・ウィズ・ユー」を意識した「バッド・ガール」で、バンドの勢いを生かした元気なタイプが次のシングル「ストップ・ミー」。そのあと99年の12月10日にアルバム『フライデー・ナイト』がリリースされます。1曲目の「フライデー・ナイトはソウル・オン!」から、ラストのソウル・バラード「あの娘にガールシック」まで……このへんがノーナ・リーヴスのひな形というか、やっぱ『フライデー・ナイト』というアルバムが出来たのは自分にとってすごく大きかったんですよね。

 

 

 

 

──メジャーでデビューして早々、たくさんの才人と出会ってますよね。ディレクターの力によるところももちろんあるでしょうけど、そういった人を呼び寄せる引力が郷太さんにあるんだと思いますよ。

 

ワーナー時代の話でいうと、やっぱりキリンジとの出会いも大きかったです。僕が早稲田大学の3年生でバンドが組めなかった時期に、同じ学部に小林克己くんていうドラマーがいて。西島秀俊さんみたいな優しいルックスの男前で。で、彼は高田馬場の駅前の松屋でバイトしてて。何もかもどん詰まりだった、1994年ですね、以前話したことのあるSLIP SLIDEっていうバンドを手伝って欲しいって小林くんに頼んだんです。

 

──高田馬場の駅前の松屋でバイト、っていうのも必須の情報なんですね(笑)。

 

この話もよくするんですけど(笑)。小林くんはそもそも高校時代からの友達のシンガーと〈ハーミット・クラブ〉って名前のトリオバンドを組んでいて。そっちのバンド優先だけどいいか?と。もちろんだ、と僕は約束してふたつのバンドを掛け持ちしてもらうことになって。で、その小林くんのパートナーっていうのが、堀込泰行くん。何気なく小林くんに聴かせてもらった泰行くんのデモのクォリティーが作詞作曲と歌をやめたくなるくらいヤバくて。で、当時そのバンドにヴァージンから声がかかってデビューするかもみたいな話も聞いて「すげー!」って焦っていたんですけど、しばらくそういう話を聞かなくなったなって思ったら、泰行くんは、兄貴の高樹さんとキリンジっていうグループを結成していてね。「あっ、ハーミット・クラブの!」みたいな。

 

 

 

 

──それから「冬のオルカ」を経て、ワーナーミュージックからメジャー・デビューするという。

 

奇遇ですよね。高樹さんに訊いたら、キリンジの初めての対バンがノーナ・リーヴスとの渋谷・クラブクアトロだったらしくて。あの頃から今に至るまで、キリンジ、KIRINJIっていうのは特別な存在ですね。早稲田の同じサークルで小松や奥田とバンドを組んでいて、ノーナ初期のベーシストだった盟友・千ヶ崎学も今や、新編成となったKIRINJIのベーシストですし。

 

──ノーナと、ほぼ同期デビュー組と言えば、キリンジとクラムボンですね。

 

98年から2001年あたりまで、ずっと外苑前ワーナーのビルに出入りしていて、新作が出来たらサンプルをいちばん先にもらったりとか、取材とか同じ日にやってたりすると、休憩の時に出てきてしゃべったり。下北沢でバンド友達がいっぱいいたっていう話を以前しましたけど、あれの進化形っていうか、ベッタリしてたわけじゃないけど。自分にとっては、キリンジ、クラムボン、ノーナ、このワーナー3組の関係は特別で。2017年にワーナーに戻って、原田郁子ちゃんと「記憶の破片」って曲を共作して歌えたのは、本当に感激する体験でした。去年は〈ノーナ最高祭〉で、それぞれ久々にライヴの対バンも出来ましたし。当時、ワーナーに入ってから出会ったミュージシャンたちは、今もそれぞれ輝いていますよね。古き良き〈レコード会社〉って感じで、スタッフとも皆、心で繋がってましたし。ホント、ワーナーの4、5年っていうのは、僕にとって下北沢時代とは別モノの“青春”だったんですよね。筒美京平さんと一緒に作った「LOVE TOGETHER」「DJ! DJ! 〜とどかぬ想い〜」を出し、『ディスティニー』というアルバムで最高傑作ができて……。

 

 

 

 

──足跡はちゃんと残せましたよね。

 

わりと精神性が高くて“聴かせる”音楽だったキリンジやクラムボンとくらべると、ノーナは無邪気で元気なパーティー・バンドというか、ちょっとラップも入ってたりして。大きく括れば今でいうブルーノ・マーズの世界観なんかに通じるところはあって。雑誌とかでもメッセージとか作り手の苦悩の吐露みたいなものが最優先の風潮でしたし、まぁ浮いてましたね。レディオヘッドの「OKコンピューター」の時代ですから。僕みたいにポジティヴでタフなことを良きとするフロントマンや、少年隊の「ABC」ヤバくない??みたいな主張してるリズミックなバンドって当時のメジャーではほとんどいなかったですから(笑)。今、「LOVE TOGETHER」とか聴くと超普通ですけど、当時にしてはメンタリティーが異端だったんですよ。

 

 

 

 

──RIP SLYMEやKICK THE CAN CREWがワーナーからメジャー・デビューするのは2001年です。

 

ですよね。それでまあ、『ディスティニー』は当時2万枚ぐらいは売れて、僕らとしては最高傑作ができたと思ったんですけど、メジャー・レーベルが求める基準には達していなかったんです。そういうこともあって、それまでA&Rを担当していた渡辺忠孝さんが外れることになったんですけど、渡辺さんはノーナのあとにコブクロを担当されて、ここで言うまでもないですけど、その後大ヒットして。

 

──そういえば当時、ワーナーミュージックが〈北青山的〉というキャッチフレーズで若手の所属アーティストを売り出してましたよね。CDにシールが貼ってあって。

 

そうそう、1000円で13曲入ってるオムニバス(2001年リリース『北青山的13曲1000円』)も売ってて、ノーナやキリンジやクラムボンも入ってたし、それこそコブクロとか、蔦谷好位置さんがいたCANNABISとか。僕らみたいにいまだ元気でやっているバンドもあれば、蔦谷さんみたいに今では裏方に回って大成功された人もいるし。あと、この時期のワーナーにはSuger SoulやSPANOVAや花*花……「さよなら大好きな人」って今も大好きな曲なんでけど、当時のワーナーにはずいぶん才能ある若手がいたなあって思いますね。ちょっとしたファミリー感がありましたし。

 

 

 

 

──ですね。当時のワーナーミュージックは、メジャー・レーベルのなかでもちょっと特殊な感じだったと思います。で、ノーナ・リーヴスのほうはA&Rが替わり……。

 

渡辺さんのあとに担当になったのが竹原功記くんっていう、渡辺さんとは打って変わって、僕より2下ぐらい下の若手で。ノーナのA&Rをやるまではワーナーの大阪営業所でプロモーターをしていて、僕らがラジオ局のキャンペーンなんかで大阪に行くとあちこち連れて行ってくれた年下のイケメンだったんですけど、僕らがインディー時代からノーナのことがめっちゃ好きで。ノーナと仕事したくてワーナーに入ったっていうぐらいの勢いでいつも全力で宣伝してくれてて、ホント、イイ奴だなあと(笑)。

 

──(笑)。

 

97、8年ぐらいだったか、神戸にキャンペーン行ったときに初めて仕事したんですけど、神戸の震災から2、3年ぐらいしか経ってなかったので、ポートタワーのKISS FMに行く途中の記念碑を見て、何気なく「ご家族を亡くした人もいっぱいいるんやろうなあ……」って話したら、竹原くんが「僕の両親は震災で亡くなったんですよ。同じ家で寝てたんですけど、僕の部屋は大丈夫で」って。え?と言葉が出なかったことを憶えてます。その竹原くんがノーナのA&Rになりたいって東京に出てきたんですけど、最初のディレクター渡辺さんが大ベテランだったんで、このバンドのことをホンマ好きやっていう若いディレクターをつけたら新たな変化あるんじゃないかってことで、ワーナーも竹原くんをA&Rに抜擢したと思うんですよね、たぶん。僕らもすでに4年ぐらいメジャーでやってきたんで、彼にいろいろ教えたってみたいな感じもあって。

 

 

 

 

──というのが2001年。

 

5月に「パラッパラッパー」というゲーム用にリミックスしたシングル「LOVE TOGETHER 〜パラッパラッパーMIX〜」を出して、これはゲーム自体の音楽も手掛けていたPSY・Sの松浦雅也さんがリミックスしたものなんですけど、ノーナもこれでブレイクするんちゃうかっていう、まあ、これでノーナを知ったっていう人も多かったんですけど、ここまでが渡辺さんで、このあとから竹原くん。

 

──ということは、シングルで言うと「I LOVE YOUR SOUL」(2001年11月)あたり。

 

ですね。結局、竹原くんとは約1年ぐらいですかね。そのあいだに『GREATEST HITS / BOOK ONE』っていうベスト盤とか『CHERISH!』っていうリミックス盤とかなんやかんや作ったけど、力及ばずで、ノーナは2001年いっぱいでワーナーとの契約が切れたんですよ。

 

 

 

 

──シビアな現実です。

 

その時の僕ね、結構ブルーで。プロ生活もこれで終わりか……って思ったんですよ。ただ、最後のベスト盤のセールス次第では契約期間が延びるかも知れないって言われて。で、当時、クレイジーケンバンド(CKB)の横山剣さんがめっちゃノーナのことを褒めてくれてて。先日、僕がMCを務めてる「ぷらすと」って番組に剣さんがゲストで来てくださって、久々にお話したんですけど、その時も「ディスティニー」聴いて、音楽やめようかと思うくらい感動したって言ってくださったんですよ。嬉しかったですね。

 

──2001年のCKBは、『ショック療法』をレディメイドから出したあとで、2002年に、いわゆるブレイク作(初のチャートイン)って言われる『グランツーリズモ』が出るという、右肩上がりで注目されてた頃ですね。

 

そう、そのノリにノッてた剣さんから「めっちゃ最高! いいね!」って、褒めてもらって。僕らももちろん好きになったんですけど。今思えば、あの時の剣さんは今のボクよりも年下だったっていうのが、びっくりするんですけど(笑)。

 

──あの貫禄に憧れます(笑)。

 

それでいて腰が低いところが素敵ですよね。で、剣さんがすごく褒めてくれるもんだから、ベスト盤は最後のCDになるかも知れないし、ここはひとつお願いしてみようっていうことになったんですよ。それがベスト盤に収録された「ハッピネス・イズ・オン・ザ・ターンテーブルズ・オンリー 」の〈HONMOKU’77 MIX〉。それでまあ、その曲が入ったベスト盤が12月に出たんですけど、最初はね、『WARNER MUSIC YEARS』っていうタイトルにしたかったんです。ワーナーで出すのは最後だろうと思ってたから。そしたら、ワーナーの何人かのスタッフから大反対されて。

 

 

 

 

──ほう。

 

「まだノーナと仕事を続けたいと思ってる俺らが悲しくなるじゃないか」みたいなことを言われて。僕は「どうせ無理やん」って思ってたから『WARNER MUSIC YEARS』でいいと思ってたんですけど、「そんなこと言うたら完全に終わりみたいやから」って竹原くんとかにも反対されて、それで『GREATEST HITS / BOOK ONE』っていうタイトルにして出したんです。

 

 

 

 

──しかし、ワーナーミュージックとの契約は切れてしまい……。

 

それでもう、最悪や〜っていうひと月ふた月があったんですけど、今のマネージャーである矢島さんがコロムビアとの契約を決めてきてくれたんですよ。

 

──またメジャーでやれると。

 

でね、その話が決まったあと、矢島さんとメンバーみんなで寿司を食いに行ったんですけど、その寿司が人生でいちばん美味かった(笑)。コロムビアが決まるまでは「オレら終わりかもしれん」っていう気持ちを3人とも持ってたと思うんですけど、ここからは契約が切れようがなんとかなるぐらい思えるようになって。奥田や小松は他のアーティストのライヴ・サポートとかも始めてましたしね。

 

 

 

 

──ということで、舞台は外苑前駅からお隣の青山一丁目駅(当時のコロムビアの所在地)へと移るわけで。

 

なんですけど、竹原くんとは友人としての関係が続いてて。彼は2003年頃に結婚して、僕らのあとに若いバンドを担当していたんですけど、その頃ってレコード会社の収益が急速に落ちていて会社の人員整理なんかもあって。ひとりのA&Rがいくつもアーティストを抱えなくちゃいけないっていうたいへんな時期だったんですよね。で、2004年の2月の終わりに、竹原くんがスタッフとして東京から名古屋までとあるバンドを乗せて運転していた時、高速道路でハンドル操作を誤って事故を起こして亡くなってしまったんです。まだ28歳か29歳ぐらいだったと思うんですけど。僕ら、その時はコロムビアとの契約も終わり、メルダック(徳間ジャパン)に移籍して『THE SPHYNX』っていうアルバムを作りはじめるかっていう時だったんですよ。それと、ラーメンズの小林賢太郎が僕と同い年で、30歳になるからってことで彼の舞台のテーマ曲を新たに作ってほしいって言われてたんですよね。舞台で使ったインストが、やがてノーナの「NEW SOUL」って曲になるんですけど、その作業をしている時に、竹原くんが亡くなったって電話かかってきて。もう、めっちゃショックで……。

 

 

 

 

──それはもう、言葉も出なかったでしょう。

 

お葬式に行ったらね、奥さんが「竹原は、郷太くんのことが大好きだったんですよ」って話してくれたんです。ワーナーがノーナを手放さなければならなかったのは自分の力不足だったから、自分がこれからたくさんヒット・アーティストを出してディレクターとして権力を持てるようになって、ノーナをワーナーに呼び戻してもう一回郷太くんと、ノーナといっしょに仕事したい──それが自宅での口癖だったんですよ、って。当初インストのつもりで書いていた「NEW SOUL」に歌詞をつけてもいい?って小林賢太郎に尋ねたら、もちろん、って言ってくれたんで、竹原くんを想って歌詞を乗せました。

 

 

 

 

──「NEW SOUL」は2004年6月にシングルでリリースされて、ここからノーナ・リーヴスの徳間ジャパン時代が始まるわけですけど、そのあと2011年にビルボードに移り、2017年から再び……。

 

そう、来年でメジャー・デビュー20周年だなっていう時に、またワーナーに戻ることになったんです。ワーナーの梶野さんという、竹原くんが関西にいた頃の上司が「ノーナ、今いいよ」って社内でいろいろ働きかけてくれてはいたそうなんですけど、誰か一人の意見で戻れるっていうものじゃないですからね。ビルボード・レコードでも本当に良くしてもらっていたんで悩んだんですが、これは亡くなった竹原くんのパワーが効いてるに違いないって、そうとしか思えなくて復帰を決断しました。

 

写真:杉江拓哉( TRON)   取材・文:久保田 泰平

 

 

 

 

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編集・構成 MOC(モック)編集部
人生100年時代を楽しむ、
大人の生き方マガジンMOC(モック)
Moment Of Choice-MOC.STYLE

 

PROFILE

西寺 郷太

1973年東京生まれ京都育ち。早稲田大学在学時に結成したバンド『NONA REEVES』のシンガーであり、多くの楽曲で作詞・作曲も担当している。音楽プロデューサー、作詞・作曲家としては少年隊やSMAP、V6、KAT-TUN、岡村靖幸、中島美嘉などの多くの作品に携わる。また、ソロ・アーティスト、堂島孝平・藤井隆とのユニット「Smalll Boys」としても並行して活動。そして、日本屈指の音楽研究家としても知られ、特にマイケル・ジャクソンをはじめとする80年代の洋楽に詳しく、これまでに数多くのライナーノーツを手がけ、近年では80年代音楽の伝承者として執筆した書籍の数々がベストセラーに。代表作に小説「噂のメロディー・メイカー」(扶桑社)、「プリンス論」(新潮新書)など。テレビ・ラジオ出演、雑誌の連載などでも精力的に活動し、現在WOWOWのインターネット番組「ぷらすと」にレギュラー出演中。

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