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自立と孤立、依存と共存 中村うさぎ連載コラム 〜第39回〜

 

 

〜連載第39回〜

自立を目指して生きてきたら、いつの間にか孤立していた。

依存症に苦しんでたら、共存という新たな道が見えてきた。

これは、そんな私の半生の話です。

 

 

トロフィーワイフという言葉がある。

成功した男たちが、誰もが羨むようなゴージャス美人の妻を娶り、トロフィーのように連れ歩くことだ。

男だけじゃない、女だって自分の夫をトロフィーにしてる妻は大勢いる。

 

私のブランド物狂いもホスト狂いも、トロフィーだった。

高級品を身に着けている自分、イケメンを連れ歩いてる自分を世間に見せつけたかったのだ。

 

そう、我々はトロフィーを欲しがる。

子供に凝ったキャラ弁を作るママたちも、ベンツを乗り回す男たちも、みんなみんなトロフィー大好き。

 

私はこんなにいい主婦よ!

俺はこんなにすごい男だぜ!

うちはこんなに幸せな家庭!

私の人生はこんなに充実してる!

 

世間にも自分にもそう言い聞かせたくて、我々はトロフィーを所有し誇示したがるのだ。

それは浅はかな行為ではあるが、人間の本質なのである。

ボケた母が金や夫を何者かに奪われるという妄想の虜になっているのを見るにつけ、私は自分の半生を振り返り、自分もまた「所有」に固執して生きてきたのだと自覚する。

そして「所有」への執着は、そのまま「私」への執着なのだということも。

 

「私はトロフィーなんか欲しくないわ!ありのままで生きるの!」と公言する人々だって、これまた「俗悪なものに関心を持たない超然とした私」を誇示しているわけだ。

「自分探し」をする人々も、「私」を所有したいがための奮闘だ。

世間は人間の数だけ、自己愛ダダ洩れの「私」で溢れている。

私、私、私の大洪水だ。

 

所有物で「私」を満たすと気持ちいい。

自分がより大きくなって力を得たような気分になるからだ。

だが、何かを所有すると、もっともっと欲しくなるのが人間の習性。

ナルシシズムは満足を知らず、ひたすら己の拡張を目指し続ける。

で、最終的に我々は、「所有」に、ひいては「私」に苦しめられる羽目になるのだ。

人間にとって一番の快感が、一番の苦悩を生み出す。

これこそが我々の「業」というものであろう。

 

仏教が「煩悩を捨てよ」と説くのは、そのためだ。

だが、この世に「私」がいる限り、私の拡張欲求と所有欲求はなくならない。

私が「私」を要求するからだ。

だって、私が「私」を手放したら、誰が「私」の存在を保証してくれるの?

 

そこだ。

私の所有欲求、私の拡張欲求、私の承認欲求は、すべて私の「存在への不安」から生まれている。

私がいくら「私」の存在を確信していても、他者の目に「私」が映っていなければ、私は存在しないも同然だ、と感じてしまうからだ。

 

我々がいかに「他者の視線」を必要としているか……そのことを考えるたびに、私は旧約聖書のアダムとイブの逸話を思い出す。

神から禁じられた「知恵の実」を食べたアダムとイブは、神の前で慌てて腰を隠す。

その挙動を見て、神は彼らが禁断の実を食べたことを悟る。

これがいわゆる「原罪」というわけだが、この「原罪」が意味するものを、キリスト教は長らく「肉欲」だと考えていた(アダムが隠したのは陰部だからね)。

だが、肉欲を罪とするなら、神は発情期の生き物すべてを罰するはずではないか。

しかも、神自身が「産めよ、殖えよ、地に満ちよ」などと言っているのだ。

肉欲とセックスがなければ、我々は産むことも殖えることも地に満ちることもできまい。

 

私が思うに、アダムが腰を隠したのは「自分が視られている」ことに気づいたからだ。

他者の目を通して自己認識する「自意識」を、禁断の知恵の実によって獲得したからだ。

そして、それが我々を今でも苦しめている。

他者の目に映る「私」が、本当の私なのか?

そもそも本当の私はどこにいるのか?

他者から視られなくなったら、「私」には存在意義があるのか?

自分を視てくれる他者をひとりでも多く獲得すれば、私は幸せになれるのか?

私を存在させているのは誰か? 私か? 他者か? それとも神か?

 

人間に自意識を授ける「知恵の実」を神が禁じたのも無理はない。

人はその実を食べて、神の承認よりも他者の承認を必要とするようになったためだ。

これでは神の存在意義が希薄になる。

キリスト教において神は唯一絶対の「承認者」であるべきだから。

だが、目に見えない神よりも、人は目の前の他者を信用する。

「見ないで信じる者は幸いである」とキリストが言うのは、そのためだ。

「視る/視られる」ことで世界を認識する人間にとって、「見えない存在を信じる」のは至難の業なのである。

我々が他者の目に映らないことを恐れるのもまた、自分が「視る/視られる」存在であるからこそではないか。

我々は、他者から視られるからこそ、自分の存在を信じられる。

だから常に他者の視線を求め、他者の視線に快楽を見出し、他者の視線に傷つき続ける。

 

認知症の母は、父や私や友人たちといった身近な他者をどんどん忘れていくが、自分が「視られる存在」であることは忘れない。

家族や友人の顔を忘れても、彼女は「世間」という顔のない他者の集合体の存在は決して忘れない。

そんな彼女の虚栄は見ていて本当に面白い。

耳が遠いので補聴器を勧めると「補聴器なんてそんな年寄り臭いもの恥ずかしい!」と怒るのだが、彼女を年寄りだと思っていない人間など周りに誰ひとりいない。

だって85歳だよ?

年寄りじゃなくて何なんだ!

なのに彼女は「年寄りだと思われたくない」と頑なに自分の見た目にこだわるのだ。

いったい誰にそう思われたいのだろう?

たぶん、それは彼女自身にもわかっていない。

それは現実の他者ではなく、彼女の脳内他者だからだ。

 

結局のところ、見えない神よりも見える他者にリアリティを感じる我々だが、その「見える他者」すら脳内他者のリアリティには負けるのである。

要するに、我々は自分の中の世界しか信じていないことになる。

脳内他者は目に見えないはずだが、我々にとって彼らは「私」の派生物なので、何よりリアリティがあるのだろう。

 

「我思う、ゆえに我あり。私は私である」という確固たるアイデンティを持ちながらも、常に「存在の不安」に怯え、他者からの承認を求める我々人間たち。

じつに複雑で面白い生き物だ。

私は、だから人間への興味が尽きないのだ。

(つづく)

 

イラスト:トシダナルホ

 

 

 

 

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編集・構成 MOC(モック)編集部
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PROFILE

中村 うさぎ

1958年生まれ。エッセイスト。福岡県出身。
同志社大学文学部英文学科卒業。
1991年ライトノベルでデビュー。
以降エッセイストとして、買い物依存症やホストクラブ通い、整形美容、デリヘル勤務などの体験を書く。

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