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恋のあとさき ~沙織の場合【3】〜

 

 

恋のあとさき ~沙織の場合【3】〜

人はどうして不倫という名の恋に落ちるのか、そしてその恋はどういう展開をたどるのか。女性たちの気持ちは、そして男性たちの心は……。実話をベースにした不倫小説をお送りします。

 

 

沙織が裕一との関係を日常生活に組み込むようになって3ヶ月がたつ。ようやく少し落ち着いた日々が戻ってきた。だが、沙織の裕一への気持ちは高まる一方だった。熱く燃える心をクールな態度で隠すのにやっと慣れてきたのだ。

このところ、春香は連日、塾で遅くまで勉強をしている。塾で食べる夕飯として弁当を作ることも多い。

「しっかり夕飯食べないと体に毒よ。せめて1日置きに家で食べなさい。一応、栄養は考えているけどお弁当じゃ気持ちが満たされないでしょ」

沙織はそう言って、春香の勉強を少し邪魔する。自分を追い込む娘の気持ちもわかるが、若いがゆえにとことんまでがんばってしまうと、あとで必ず心身の調子を崩す。せっかく受験に合格しても、そのとき燃え尽きていたら学生生活は悲惨なものになるはずだ。

「おかあさんが甘いから、私は自分で自分に厳しくするの」

万が一、沙織がしていることを春香が知ったらどうなるだろう。父親以外の男に身を任せ、媚びを浮かべた濡れた目で歓喜に体を震わせていることを知ったら……。

 

 

妻からの電話

 

パートが休みの日、沙織がせっせと風呂掃除をしていると、ダイニングテーブルに置いた携帯電話がけたたましい音を立てている。手を拭きながら電話をとると知らない番号だ。

「はい」

「安西沙織さん? 武田と申しますが」

切り口上にも聞こえる女性の声だった。武田、という名字に反応した沙織は、びくっと体を動かし、そのまま電話を切った。あわてて裕一にメッセージを入れる。

<奥さんから電話きた。切っちゃった>

裕一は仕事中だろう。そのうちまた電話が鳴る。出るべきか出ないですませるべきか。思い切って出る。

「なんで切るのよ」

声が苛立っている。

「ごめんなさい、うっかり」

「誰だかわかるでしょ、私が」

「ごめんなさい、どちらさまでしょうか」

「武田です。武田裕一の妻です」

「はい……」

「どういう用件だかわかってるでしょ」

「すみません、わかりません」

「何言ってんのよ、あなた。夫や子どもにバラされたいの?」

相手はどんどん激昂していく。冷静にならなければと沙織は歯を食いしばった。以前、裕一とそんな話をしたことがあったのだ。バレそうになったらどうする? と。証拠を突きつけられない限り、しらばっくれようと決めた。たとえホテルに入るところの写真を撮られていても、気分が悪くなっただけ、介抱してもらっただけと言い張る。決して認めてはいけない。

沙織はそれを忠実に守るしかないと腹をくくった。

「すみませんが、何の話でしょう。武田さんとは職場で一緒ですが」

「あなたとうちの夫は密会してるって知ってるのよ」

「密会?」

沙織はわざとらしく声を上げた。

「仕事の打ち合わせでふたりで出かけたりはしますが、密会なんて……」

「私の妹が写真を撮ってきたのよ、あなたたちがカフェで顔を寄せ合って話しているのを」

あ、と沙織は気づいた。そのときは本当に打ち合わせだったのだ。沙織はパートではあるが、独身のころ似た業種で働いていたので、裕一と取引先に出かけることもあった。娘が大学に入ったらフルタイムで働くことを会社も了解しているのだ。

「ふたりで書類の細かい数字を見ていたときかしら……」

沙織はビジネスライクな口調で告げる。

「そのあとホテル街へ行ったんですってね」

「取引先への近道ですから」

言いながら、沙織は内心、勝ったと感じた。そう思ったからこそ下手に出る。

「申し訳ありません。誤解させてしまったようで。ただ、そういうことでいちいち電話をいただいていたら、私も仕事に熱意をもてません。武田さんとのコンビを解消させていただきましょうか」

電話の向こうで少し慌てる気配がある。

「誰もそんなこと言ってないでしょ」

ばちっといきなり電話が切られた。ふうーと大きなため息をついて、沙織はダイニングの椅子に座り込む。手が汗で濡れている。いざというとき、自分がこれほど冷静に対処できるとは思わなかった。女は守りたいものがあると強くなるのだ。

<どうした?>

裕一からメッセージが入っていた。

 

<電話できる時間があったら電話して>

 

すぐに電話がきた。あらましを話すと裕一はため息をつく。

「嫌な思いをさせてごめん」

「何言ってるの。嫌な思いをしているのはあなたの奥さんよ」

裕一が息を呑むのがわかった。

「私たちはふたりして、それぞれの配偶者を騙している。それでも一緒にいたいから私は覚悟を決めたの。私は夫には絶対悟られないようにする。あなたも私と離れたくなかったらそうして」

言いながら、沙織は自分の強さに驚いていた。強さというのが違うなら狡さだろうか。いつからこんなに狡猾な女になったのか。裕一との関係が自分を変えたと彼女ははっきり感じていた。

 

 

仮面を使い分ける女

 

いつしか沙織は自分の仮面を使い分けるようになっていた。夫といるときは「明るい妻」に、子どもたちには「楽しくて優しいおかあさん」に、仕事中は冷静でてきぱきした女性に、それぞれの場所で求められている仮面をさっとつけ替える。そして裕一と一緒のときだけ、すべての仮面をはずして、ただのオンナになるのだ。

ダイニングで紅茶を飲みながら、ふふっと沙織は含み笑いをした。珍しく少しのんびりしている春香が淹れてくれたのだ。

「何笑ってるの、おかあさん、気持ち悪い」

春香が軽くにらむふりをしながら笑っている。

「だって春香が紅茶を淹れてくれるなんて久しぶりだもん。いいね、こうやって一緒に飲むのって」

そこへ浩平が帰ってくる。今日はバイト上がりが早い。

「バイト先で食べたんだけど、腹減っちゃった。なんかある?」

いつだって「家庭」には食べるものがある。それをととのえているのは私。沙織は少しだけプライドのようなものを感じる。

「あるわよ、おでんが。1個80円でどう?」

「コンビニより高いよ」

浩平が口を尖らせる。彼が必死にバイトをしているのは高価なギターを買うため。大学に行きながらアマチュアバンドを組んでいるのだ。

 

子どもたちは自分の道を見つけて生きていく。その生きていく体力と気力を養うのが親の務めなんだよ。沙織の母はよくそう言っていた。どうやって養えるのと聞いた沙織に、母は笑いながら「栄養たっぷり、食べさせておけばいいのよ」と言った。

今になってみると本当にそうだと沙織は思う。もとが丈夫なのだろうが、子どもたちは大きな病気をすることなく大きくなった。反抗期もごく普通にやってきて去って行った。春香は中学に入ると同時にやたらと大人ぶって口答えをするようになったが、それもいつしかおさまっていた。

今まで沙織は、こんなふうに自分の人生や生活を思い返すことがなかった。裕一と関係をもつようになってから、自分の生活を細部まで見つめるのが習慣になりつつある。彼との時間が、日常生活までをも活性化させているのだ。

隠しごとをしたりウソをついたり、ときには人を欺いたりしているのに、心は常に透明だった。いけないことをしている自覚はある。だが罪悪感は抱いていない。不思議な心持ちなのだ。誰にでも、特に夫には自分でも不思議なくらい温かい気持ちで接している。

裕一が仕事で問題を抱えているときの眉間の皺を思い出すと、夫につっけんどんにできなくなるのだ。今のまま、時間が過ぎてほしい。なにごとも起こらないように、誰も傷つかないように。

心も体も満たされているけれど、脳はいつも黄色信号を発している。その信号が赤に変わらないように気をつけなければ。自分にそう言い聞かせる。

「ただいま」

帰宅したときの夫の声が、心なしか最近明るくなったように思え、沙織はいそいそと立ち上がって「お帰りぃ」と声を張った。

(次章へつづく)

 

イラスト:アイバカヨ

 

 

 

 

恋のあとさき ~沙織の場合1〜

恋のあとさき ~沙織の場合2〜

 

 

編集・構成 MOC(モック)編集部
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PROFILE
亀山 早苗

亀山 早苗

1960年東京生まれ。明治大学文学部卒業。フリーライターとして、女性の生き方を中心に恋愛、結婚、性の問題に取り組む。『不倫の恋で苦しむ男たち』『夫の不倫で苦しむ妻たち』『不倫の恋の決断』『妻と恋人』『渇望』『オンナを降りない女たち、オトコを降りるオトコたち』など、不倫や婚外恋愛に関する著書多数。『渇いた夜』、『愛より甘く、せつなく』などの小説作品やノンフィクション作品も手がける。

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